2018年8月24日(金)~8月25日(土)
テアトロコント vol.29 渋谷コントセンター月例公演(2018.8)
主催公演
公演詳細
お笑いの演技、演劇の演技
ペコリーノは、数本のコントの連作『アイニコイ』一本。作・演出も兼ねる植木おでんと、ダンサーであり、ミスiD2019の候補でもあるクロコダイル ミユからなる男女コンビである。粘着質な告白をする女とそれに引く男、「私は未来から来たあなたなの」という女と自分が性転換する未来に驚く男など、リアルからファンタジーまで、設定は幅広いが漂う空気はどこまでもリアルだった。男女コンビにありがちな、「男女」から過剰に逃げる、もしくはそこに過剰に向かっていくということがなく「普通に男女」なのが軽やかで自由な空気を感じさせて、気持ちがよかった。ミユいわく「今日は女優としての私を開放した(大意)」らしいが、彼女の得も言われぬバイブスが会場を魅了していた。「かわいい」や「笑える」という単純なものではなく、なぜか目が離せず、かといって「惚れる」ということとも少し違う、まさに人を引きつける力があった。
下心だけでバイト仲間を食事に誘った男と、誘われた女のコントがとくに面白かった。男女両方にリアリティがあるのもすごいし、その範疇でしっかり笑いを取るのは本当にすごいと思う。
ピン芸人吉住は、四本の一人コントを披露した。役柄は与党議員、北関東あたりのダメ人間、ファンタジー世界の少女、女子高生のフリをするアラサー女性など様々だったが、どの役でも彼女の、がっつきすぎない確かな演技力が光っていた。「がっつきすぎない」というのは、彼女を語る上でキーになるかもしれない。どのコントも「笑いのための装置」である以前に演劇であり、「その設定をお題とした大喜利の回答の羅列」感が全く無かった。本人の意図と離れるかもしれないが、「演劇を作ったら結果的に笑えるものになった」という触感があり、今日登場の四組の中で最も「演劇」していたように思う。
野党の二世議員との「禁断の恋」に悩むコント『許されざる恋』がとくに面白かった。政治と恋愛のあるあるを巧みに結びつけながらも、それが大喜利的に見えない構成と演技が素晴らしかった。
加藤啓×槙尾ユウスケは『橋本の恋人のため』一本。「お笑い寄りの劇団」である拙者ムニエルの加藤と、「劇団寄りのお笑い」であるかもめんたるの槙尾による、テアトロコントのためのスペシャルユニットである。上映時間も体感で約二十分、まさにお笑いと演劇のボーダーに位置するこのユニットであるが、今日登場の中で最も「お笑い」をしていた。観劇後、気持ちいいくらいに何も残らない。前出のペコリーノや吉住に「演劇」を、言うなれば「エモ」を感じたのとは正反対に、ただただ笑えるだけなのだ。これはすごい。この一因は、劇の冒頭であらすじが、なんなら生死をかけた結末までが加藤の口から告げられることにもあるはずだ。それにより観客はストーリーを追うことから解放され、「こいつらどうせ死ぬ」と思いながらただ笑いを味わえばいい。
加藤の口からしつこいくらい放たれる「全任せ」というワードが、妙に気に入って頭から離れなかった。それ以外のセリフはほぼ記憶にないのに、「面白かった」という記憶だけは確かにある。
テニスコートは『独り言』『シェアハウス』の二本。安定のテニスコートと言うべきか、六回目のテアトロコントでも、余裕の雰囲気で爆笑をかっさらっていった。揃いの衣装に身を包み、「おしゃれ」で構造的なコントをこなすと思われがちな彼らであるが、そこからはみ出す「変」、もしくは「クセ」のようなものがこの二作では目立っていた。『独り言』のラスト、なぜ三人で揃って『おさかな天国』を歌うのか?まったく意味がわからない。『シェアハウス』のあの踊りも、子どもが見たら泣いてしまうレベルだ。
神谷圭介の演技力に目を見張った。あの「いや、笑わす気はないですけど?」という風情は努力では出せない天性のものだと思う。
演劇性の強いお笑い芸人と、お笑い性の強い演劇人というまさにテアトロコント的な「混乱」のあるすばらしい回だった。その二つの「性」はどこから来るのか、つまり笑いと演劇の境界線は何が引くのかに思いを巡らせた。それは脚本や演出ではなく、演技なのかもしれない。わからない。また来月の公演で考えよう。(森信太郎)
“恋文”という名の妄想
人は想像する生き物である。かの古代哲学者がかく語ったかどうかは知る由もありませんが、古今東西あまたの思想家が言わずもがなとしている真実であることに疑いの余地はないと言っても過言ではないでしょう。
とある部屋に侵入した一人の泥棒(塚本直毅さん)。住人(溜口佑太朗さん)の存在に気づいて身を潜め、様子を窺うが、何だか妙。一人暮らしだと思っていたのに、妻らしき人との会話が。でも、彼女の姿は見えません。そこでハタと気づくのです。これは音だ。前もって録音した音声を流し、その音と会話しているのだと。ヤバイ!これはかなりヤバイですよね。泥棒も当然のように気味悪がっていると、住人の行動はエスカレート。誕生日のサプライズが始まったかと思うと、フラッシュモブまで。住人は嬉々とした表情で会話を楽しみ、大げさなリアクションをするのですが、勿論、住人以外は誰もいなくて、全て音!このシュールな光景を目の当たりにした泥棒は戦慄を覚えます。でも、この爆笑コントを目の当たりにしている観客は、固定観念が崩れゆくさまを体感し、得も言われぬ快感を得るのです。一人暮らしは全然淋しくなんかない!奇妙に思える住人の方が、実は幸福に満たされているのだと。
続くコントでは、演者の立ち位置が逆転。塚本さんが狂気の父親を演じます。息子役の溜口さんがテーブルに置かれた履歴書を発見。しかも複数。父親に問うと、予期せぬ答えが返ってきます。ネットで見つけた人の写真を見て、お父さんが勝手に書いた履歴書だと。しかも、お父さんはスターバックスの店長に憧れていて、スターバックスお父さん支店を開いたんだと。実際は郵便局員なんですが。そして、そのお父さん支店にバイトの面接に来た人の履歴書がコレなんだと。名前や大学、資格など、書かれている文字は全部妄想。一見、よさそうな人物でも、週末NGだから不採用!これも勿論、妄想です。ネガティブな面にまで妄想を及ばせるのが、コント作家でもある塚本さんの秀でた点です。さらに、この完全にどうかしてる親父のキャラクターを創作し、自分で演じている塚本さんには、人物への深い愛も感じられます。それは息子の反発から始まります。父が作った履歴書を見て、この人はこんな経歴じゃない、性格も本当はこうなんだとイメージを目一杯膨らませた持論を熱く展開。そこでハタと気づくのです。妄想って、めっちゃ楽しいじゃんと。最初に否定させといてからの肯定。この構成力も塚本さんの力量を如実に示すものでしょう。
人は想像する生き物である。不変の真理に付け加えるべきフレーズがあります。妄想は人生を豊かにする。ラブレターズが私たちに送るメッセージです。(市川幸宏)
吉住、控えめに言って最高。
【吉住】<コント師>出演者:1人/★★★★★/「…幹事長に…バレたの…」。国会答弁を終えたばかりの与党女性議員が、恋仲がバレたと、野党エースの男性政治家に伝えるところから舞台は始まる。「…”誠に遺憾に思う”だって。…ミサイル飛んできた時くらいキレてた…」。「だってまー君。離党する離党するって全然してくれないじゃん!」「…自分の分(ぶ)が悪が悪くなったら話そらす…野党の悪い癖だよ!」。”不倫あるある”と”政治家あるある”をリミックスしながら、目の前の男性政治家に不満をぶつける。「何その、記憶にございませんみたいな顔…」「…黙ってないでなんか言いなよ!…いつもみたいに野次飛ばしなよ!」許されぬ野党政治家との恋と、希望の薄い比例代表当選の席。あまりに脆く細い両者の糸をなんとか縫い合わせようと必死にもがく女性議員の姿が、笑えるも物悲しい『許されざる恋』。
「ねえシュウジ、志望校どこにしたの?やっぱ東京行くんだ…。…この三人で野球できるのも後少しだね。」と、土手のグラウンドに佇み制服を着た彼女。「ちょっとケンタうるさいよ。すぐ投げるから。」。二男一女の”タッチ”的青春を謳歌する田舎高校生三人。そこに警察官であるケンタの兄がやってきて彼女に耳打すると、幸せだった青春は終わりを告げる。彼女は観念し、二人を集め語り始めた。「大事なことを話すね…私、今年で30になります。ずっと同級生のふりをしていました。今まで嘘をついていてすいませんでした。」「…仕事もクビになって…恋愛も上手く行かなくて…何もかもが嫌で…そんなときネットでこの制服見つけて…」。初めて触れる人間の狂気に怯えきった高校生を前に、なんとかその場を明るくしようとする彼女は「私も、一緒に卒業したかったなー。なーんて♪」とおどけてみせるが、空気はさらに凍りついたにも関わらず止まらない彼女は、最強のキラーフレーズでトドメを刺す。「ねえケンタ、前に私に、”お前が30になっても独身だったら、嫁にもらってやる”って言ってくれたことあったよね。…私ね、あと、2ヶ月でなるよ?…あの約束って、どうなってる?」ガン無視するケンタ。彼女の頭に、甲子園の試合終了のサイレンが高らかに鳴り響き、幻の青春が終わりを告げる『時をかける女』。うまく生きれない彼女の孤独と、青春の喪失感に溢れ、女性の加齢という世間の呪いに苦悩し、追い詰められ、押しつぶされた末の間違い、そうするしかなかった悲しみが詰まっていて、笑いと涙が芸術的交差する良質なコント。歪んだ青春の終わりの余韻が、確かに劇場を支配していた。他、全4作品。
【総評】文字で伝えると悲しみしか伝わらないかもしれないが、これが普通に笑えるから不思議。笑うほど悲しく、悲しいほどに笑える。吉住の持つ感性と質感の柔らかさが、女性目線からの孤独や抑圧、同調圧力による深い「悲しみ」を憎めない「愛嬌ある笑い」に変換していたように思う。本人がなりたいかどうかは置いといて、女流版イッセー緒方として、青山あたりのオシャレな劇場で単独公演をやる日を勝手に期待している。もちろんユーロライブでも。(モリタユウイチ)
突飛なメタに掴まれる
テニスコート『独り言』
「ギター、始めるかぁ…」男の些細な呟き。だがその細やかな決意、何となく気になってしまう。その男に周りの男達は聞く。「ギター、始めるの?」聞かれた男は嬉々として返答する。「うん、何か趣味を持とうと思って…!」何か気になる一言を放った後、何とも期待外れな返答を繰り返すコント。どうやらこの技は上手/下手がある事、三者がそれぞれいつ返答待ちの一言を放り投げるか疑心暗鬼になる事など、展開も面白い。最後は三人とも呟く事が「おさかな天国」の歌詞になり暗転。
トンツカタン『遭難』
遭難中の2人。食糧が無く、寝たら死ぬ。片方が鞄にチョコがあったので2人で分けようと言うと、もう片方が「チョコの口じゃないからいらない」と言う。そこで問答が起こると上手からTシャツ姿の男が現れて「このコント、冬にやれ!」とツッコむ。いや〜、ビックリした。その角度からのツッコミってありなんですねという感じだ。遭難を演じる2人も少し腑に落ちなそうにコントを演じ続ける。『遭難』全体を通して季節感やボケの抜け切らない感じなど含め、若干の至らなさに対して森本が"ツッコむ"というよりは"キレている"という状況。60%ぐらいの完成度のコントに"ダメ出し"で40%を補完するという見せ方はどういった経緯で思い付くのか。ダメ出しされ続けた2人が最後、ボケを褒めるというオチまで面白かった。(菅野明男)
演じる日常を演じること
人々は、日常生活の中ですでに〈演じて〉いる。その事実が、舞台上の作劇という演じられたものの中で露呈する。つまり彼らは、コントを演じながら、日常に潜む「演じること」を明らかにするのだ。
ここからは、2018年8月24日公演に起きた「演劇とお笑いコント」の接近について記したい。4組のコント師たちが奏でる一貫性から舞台上に現れたのは、まさに両者の融合という〈出来事〉であった。
1組目「トンツカタン」のコントからすでに、日常の中で演じることをメタに観察する視点が導入された。作品を通して客席にそのメッセージが伝播する。
たとえば路上で居酒屋のキャッチを務める人間は、そのためのキャラの中に入っていて、そこからふざけたり、人を騙して遊ぶ余地が生まれてくる。私たちにとって、キャラを演じているときは、加速的に行動を「盛る」ことが容易になる。
他のケースからも考えてみよう。独自の番組(パックンチョチャンネル)を運営する素人YouTuber2人は、もはや動画で「キャラ」を演じることの中に、自分にとっての居心地の良さを見出してしまったのかもしれない。ネット空間で演じていたものの方がリアルな在り方としてせり出し、現実の彼らは行き場を失う。だからこそ、彼らのカメラ外での(オフの)コミュニケーションには齟齬が生まれ、後から会話の輪に入った者は翻弄されるのではないか。初対面の人間が、番組の中でキャラを演じようとすると、番組を運営する2人はお決まりのセリフをあえて発しない。彼らはその空間でもはや「演じていない」からこそ、余裕を持って流れを脱臼することができるのである。元々は演じていたはずが、もはや演じていたことを忘れ、それが自然な状態に変化したことで、2人は一歩引いた目線から言動を選択できる。これは先の居酒屋キャッチにおける「キャラ入り」の例とは対照的だ。
そして、山で遭難する最後のコントこそ、「演じること」をメタ的な視点から眺めるトンツカタン作品の原型に他ならない。キャラを演じる2人に対して、通常のツッコミ芸人として存在する1人が、ひとつ引いた目線から介入する。それはコント内コントを演じている2人(キャラステージ1とでも呼ぼう)に対して、舞台裏からたまに出てくるもう1人(ステージ2)がツッコミを入れていく、というコント(ステージ3)なのである。
先の例でいう、キャラに入ったが、そのキャラの方が現実の性格として機能するようになってしまったYouTuberを、お笑い芸人は〈コントの中で〉さらに演じなければならない。一歩引いたところからキャラ化した人物を俯瞰する立場を手に入れていながら、さらにそれを行なっている彼もまた舞台上でツッコミという役割を務めている。
日常におけるキャラ化の戯れ。これは、前衛より大衆の理解に寄り添わなければならない市場原理を持った「お笑いコント」が、演劇よりも日常性を強く持つからこそ可能な表現である。人々が「日常の中で演じていること」を創作して伝える際、コントこそその最適解に他ならないのだ。
2組目の「ラブレターズ」もまた、私たちが日常の中でいかに演じているかを強調する。野球部のレギュラーをかけて騙し合いを行う高校生だけでなく、一人で複数の役を演じ、ひとつの部屋の中にサイコな空間を作ってしまう者までが描かれていく。彼は逐一演じることで様々なキャラを録音し、スピーカーから流し出すのである。次に、履歴書から想像力を膨らませてひとつの「劇」的空間を作り出す父子が描かれたと思えば、最後には彼らも「お笑い芸人がコントを演じること」について、メタ的に思考する作品を披露した。
「テニスコート」は、演じることが日常の中でいかに〈ゲーム性〉に結びついているのかを描き出した。「遊び」に一度乗っかり、演じることを続けながら、手探りで場のリアリティを見出そうとする私たちの日常をコントは反映する。彼らが遊びの仕掛けを「放った?」とキーワードした瞬間には会場に大きな笑いが生まれたように、状況を少し斜めからみて言葉を当てはめるセンスには秀逸なものがあった。また彼らは、ゲームを演じることによって、人生までもが乗っ取られるという実存的な恐怖を示すことも忘れなかった。
「加藤啓×槙尾ユウスケ」によるコントも不思議な作品だった。冒頭、加藤はこれから起こる〈事件〉を先に語ってしまう。これで彼らは「物語」の魅力に頼ることはできなくなる。客席に台本を演じていると分かられた上で、演じること。彼らはとにかく舞台上で生まれるものとそれを見た観客の反応にこだわったのだ。役を演じながら、そこに表出するのはむしろ役者としての「身体」だった。異世界を場に転移する「コント」ではなく、舞台上の身体性を強調し、現実をまた別の現実と隣り合わせで繋ぎ合わせる「演劇」により近接する試みが、このようにして存在することになった。(小川和キ)
テアトロコントvol.29の演目
トンツカタンのコントは4コマ漫画の実写版をみているようだった。舞台袖に消えたと思ったら男が男をお姫様抱っこして出てくる(『火事』)、スマホで動画を撮影するときに3人が客席と平行に横を向いて並ぶ(『芸能人』)、さえない男女が熱い抱擁を交わす(『告白』)など、ストーリーを象徴するようなビジュアルが各演目に1個ずつあって、それをたたみかけるようにして展開していくところが4コマ(あるいは2コマ、3コマ)漫画を想起させた。登場したキャラクターの中では、人の気持ちを逆なでしていく傍若無人なユーチューバー(実は××)が今的で印象に残った。『遭難』はそれまでの4つの演目と少し異なり、命の危険がせまっているときに「甘いものの口じゃない」とか「ポテトチップスが食べたい」などと言う男がでてきて、ビジュアルよりもセリフの面白さの方が際立っていた。また、途中から、コント内コントというのか、立体的なメタ構造になっていくところも、それまでの平面的なやりとりを見続けた目には新鮮に映った。
レギュラーメンバーを蹴落としたい高校球児が練習よりもスキャンダルの種をまくことを選ぶ(『野球部』)、泥棒に入った部屋の住人がテクノロジーに長けた変わり者だった(『おい、泥棒!』)、スタバの店長をやりたい父親がバイト店員の履歴書を妄想で書きあげる(『覚醒dad』)、人間がイクラを生む(『夢オチ』)など、ラブレターズのコントはどれも着眼点が独創的かつ具体的で、人間の欲望の暗部をえぐっていて、それらを終始満面の笑顔で演じているところにすごみがあった。セリフの中では、『覚醒dad』のお父さんが言う「おばさんは布石」というフレーズが耳に残った。
加藤啓×槙尾ユウスケの『橋本の恋人のため』は、大熱演する2人と、それを茶化すような雑な動きをみせる黒子(とそれが操るヘビ)のビジュアルがひたすら目に焼きつくコントだった。子どものころにテレビでみていたお笑いは、こういう「くだらないことを必死にやる姿がただただおかしい」という笑いだったことを思い出す。考えながらみたらダメなんだろうと思った。
テニスコートの『独り言』は、今日みた演目の中で一番面白かった。静寂のなかでだれかが独り言をもらし、聞かされた方は気になってつい話しかけてしまうが、意味がわかると大した内容ではなくて、「なあんだ」となって解散する。気をよくした最初の人が再び独り言をもらす。そぎ落とされたやりとりが徐々にパターン化していき、おれもおれも、となって言葉が渦を巻いて上昇していく様子が愉快だった。極端化されているものの共感できるシチュエーションで、すっと設定に入りこめた。出演者は最初、椅子か地べたにすわっていて、客席からみると舞台の上半分は「余白」に映るのだが、そこが、この静かな導入から始まるコントの行間の役割を果たしているように思えた。「手はハンドだ」は、今日聞いたセリフの中でいちばんツボにはまった。また、「東京オリンピックのボランティアには交通費が出ないらしいよ」とか「スーパーボランティアの尾畠さんみたいにいうな」などの時事ネタや、3人が一斉にしゃべるときに聞こえてきた「さかなさかなさかな」というテンポのよい音などは耳に楽しく、セリフがないがしろにされていないように感じた。『シェアハウス』は、シェアハウスに胸躍らせてやってきた新しい住人が先住者の理不尽な掟に直面し、それを受け入れるかどうか煩悶する様子が描かれていて、その理不尽さはまったくばかげているのに、どこか現実と地続きであるようにみえるところがよかった。(注:セリフはすべてうろ覚えです)(大熊)