2017年5月26日(金)~5月27日(土)
テアトロコント vol.19 渋谷コントセンター月例公演(2017.5)
主催公演
公演詳細
笑い以外への執着について
Aマッソは短編4本と、各幕間の映像が3本。短い分、アイデアは研ぎ澄まされ、その鋭さを味わえる内容だった。
どうしても作・演出を担当する加納の発想力に注目しがちだが、村上の演者としての魅力にも気付かされる。特に「旅行代理店」での、無能な新人役。見た目は普通、中身は異常。本人だけが気付かない狂気を上品に演じ、「加納ワールド」を体現していた。
アイデア面で一番好きだったのは、手タレ(手のパーツモデル)のスケジュール帳の部分。口頭で説明される「ヒラ、ヒラ、ヒラ」が「手の平」の意であると気づいたとき、観客が「じわり」始める。そこにテンポよく投げられる「甲」「(仮)」、果てには「首!?」。鋭いアイデアとそれを展開する技術。観客は完全に、Aマッソの手のヒラの上だった。
明日のアーは長編「ギフテッドクラブへようこそ」一本。
選ばれし高IQの人間しか入れない「ギフテッドクラブ」に、一人の若い女性が訪れる。彼女はとある事情で入会を希望するのだが、IQもプライドも高い他のメンバーに圧迫面接のような扱いを受ける。彼女は戸惑いながらもそれを受け入れ、次第にメンバーの一員として認められていく。
全編通じて細かい仕掛けがたくさんで、笑いが絶えない。バカバカしく、あるあるのセンスに溢れ、どこか可愛い。特に好きだったのは、議論が白熱して暴走してしまうメンバーを、他メンバーが落ち着かせるシーン。その手段は、妙に上手い一輪車。「すご~い」「何で倒れないの!?」という台詞、議論から一輪車へのタイミング良い「天丼」に笑えるだけでなく、これが大オチの見事な伏線であった。
Aマッソは映像含め7本、明日のアーは1本。今回取りあげなかった水素74%は1本、かもめんたるは3本。1本ごとの上演時間だけ見てもお笑い的、演劇的と分けられるが、もう一点違う部分は「完成度」に対する執着だと思う。稽古時間も全然違う。一般的なお笑いの場合、目的は「何が面白いかを観客に伝える」こと、すなわちプレゼンであって、演技や物語もその手段である。極論、伝わればOKの世界。演劇の場合はもっと欲張りで、観客を笑わせ、演技にリアリティを持たせ、物語としても完成させる。演者と演出家が別人なのも理由かもしれない。
ただ今回の出演者中、演技力が突出していたのはかもめんたるの岩崎う大だった。天才的だった。稽古を重ねたプロの役者を超えていた。お笑い/演劇/コントの境界が、テアトロコントに通えば通うほどわからなくなる。(森信太郎)
優れた作品に感謝。こんな完成度を毎回観れたら最高だ。
【1】Aマッソ/★★★★★/『旅行代理店』等四作品+映像四作品。出演者:二人組。Aマッソを見るのは二度目。前回以上に発想が急角度でキレッキレで、今しかない煌めきがあり、多作品。しかも全てテアトロコントの為に作られた新作なのが嬉しい。手タレの悲哀をマネージャーが説得する『タレントとマネージャー』、”レイニーデイ”と名乗る非既成概念キャラが転校してくる『転校生』、棒が描かれた紙芝居にツッコミし続ける「棒なんやねん」等、ナンセンスギャグを勢いのあるスピードと妙な知性で猛連打し、ついてこいと言わんばかりに観客を沸かせた。
【2】明日のアー/★★★★☆/『ギフテットクラブへようこそ』一作品。出演者:四人。高知能者だけが入れる交流クラブに、コンピューターの産みの親ノイマンを親戚筋に当たる女性がやってきて、AIに対抗する知能獲得のための訓練する様を描く。小ネタ一つ一つがあまりに高密度で、多くのセリフを取りこぼしてしまったが、ともすれば知性だけに溺れがちな題材を、”知性が行き過ぎてバカになる”というアルジャーノン式反転を活かして一度も温度を落とさず疾走したのが見事だった。
【3】水素74%/★★★★☆/『未知との遭遇』一作品。出演者:四人。さえない先輩後輩関係の男二人組が、美女と野獣の女二人組をナンパに成功し、それぞれ別れるが…というわかりやすい設定を細かいディテール勝負で繋ぐ。美人を必死にくどくが、野獣女性がガードしたり、後輩男と野獣女性のホテル事後のやりとり等、ありそうで情けない様に気づけば親近感を持ち、微笑ましく見守るように笑わされていた。前回出演時の、俳優同士のリアルな演技から、娯楽として楽しめる修正が入っていたのも効果的だった。
【4】かもめんたる/★★★★★/『彼女のケータイに出てみた』等三作品。出演者:二人組。飲み屋で部下の心労退職の相談を受けている最中、病んだ妻から電話がかかってくる『相談』は最強の破壊力だった。嫁の「玄関でかものはしが死んでる」との報告後、送られてくるラインには”靴べら”の画像。妻の心労に向き合う向き合う気のない上司が、部下の心労相談をしているパラドックス。こんなに暗く悲しい話が爆笑に包まれる手腕に脱帽した。心無い言葉が飛んでくる苦しみも、心労者の相手をする終わりなきうっとおしさも、どちらの気持ちもわかる人間に突き刺さる。
【総評】褒め言葉しかない批評になってしまったが、無理して批判するのもつまらないし、優れた作品は素直に感謝したい。こんな完成度を毎回観れたら最高だ。(モリタユウイチ)
想像の翼を広げさせるカモメたち
世界を一瞬で変えてしまう魔法のツールが存在します。お気づきですか?ケータイです。
かもめんたる・槙尾ユウスケさん演じる男の部屋で彼女が忘れていったケータイが鳴る。相手は元カレ。いかにも遊び人という風体の岩崎う大さんがヨリを戻そうと軽く言う。槙尾さんが今、付き合っている者だと言っても、彼女が嘘をついていると信じ込み、聴く耳を持たない。それどころか「昼間、喧嘩して、夜、仲直りする、無限ループの日々を繰り返そう」などと呼びかける、超ポジティブ・シンキング。一方の男はコレといった個性のない人物。好対照というか、真逆というか。ここで俄然、興味が湧くのが、その場に居合わせない彼女のルックス、人となりです。嫌気がさして、180度タイプの違う男性に乗り換えたと想像することはできるのですが、それを機に服のセンスや化粧の仕方、喋り方まで変えたのか、そして、それは一体、いつまで持続するのか? 想像の連鎖はそれこそ、無限ループのように続くのです。
2本目。職場の人間関係に悩み、心を病んだサラリーマン(槙尾さん)が居酒屋で上司(岩崎さん)に相談しようとした矢先、上司のケータイに妻からの着信。家の庭や玄関に動物の死骸があるという。彼女は明らかに幻覚を見ている。ここで世界は一変します。心の病み具合は自分よりひどいと、部下は大層、心配するが、上司は大して気に留めない。妻は何度も電話をかけてくる。その度に上司は適当にあしらう。妻はどんな気持ちで家にいるのか?その佇まいを想像すると、居ても立っても居られない気持ちに。そして、非情な刃を部下にも向ける、デリカシーのない上司にも深い闇を感じるのです。
3本目。先輩(岩崎さん)が後輩(槙尾さん)に激怒している。とんでもない嘘をついてくれたと。あんなに盛り上がった話は嘘だったのかと。女性の足を洗うのが好きだという性癖は嘘だったのかと。はっきり言って、実にどうでもいい話です。だからこそ笑えるのですが。先輩は一緒にいた仲間に電話をかけ、深々と詫びる。あの話は嘘だった、申し訳ないと。ここで世界は一変します。電話の向こう側の世界が。話し相手がケラケラと笑う姿が目に浮かびます。そりゃそうでしょう。どうでもいい話なんですから。
この日、かもめんたるが演じたコントは全て、空気の色を一瞬にして塗り替える、ケータイの破壊力をまざまざと見せつけるものでした。そして、高度な演技力を有する二人は観客に、見えない人物の姿形まで想像させることにより、一度に複数の世界を描いたのです。キング・オブ・コントに相応しいコンビ。否、既にコントの籠からするりと抜けて、エンターテインメントの上空を軽やかに飛翔しています。眼下に広がる荒波を歯牙にもかけない、かもめのように。
(市川幸宏)
天才と阿呆は紙一重
「上位 2 %の IQ (知能指数) を持つ人達が参加する国際グループです」
公式サイトにはそのように説明されているメンサに、高校の時の同級生だった二人が入っていることを先日知った。特に驚きはなかった。どちらも奇妙といえば奇妙な人物だったからだ。一人は卒業後、ライトノベル作家としてデビューを果たした。デビュー作を読ませてもらったが、ライトノベルにボルヘスの迷宮のモチーフは少し難解すぎるのではないか、という感想を伝えるに留まった。一人は在学中、立入禁止の廃墟に侵入して停学を食らっていたが、その後若くして彫刻家として大成し、ヨーロッパへ留学した。三年間同じクラスに一度もなったことがないにも関わらず、明晰に覚えている同級生はごく限られる。その頃から彼らは飛び抜けて浮いていた。平均より浮き気味の私からみてもかなり高い位置に浮いているように思えた。運動会や文化祭で、遠くからでもすぐに発見出来るくらい浮いていた。噂が校内を何度か駆け巡り、稀に全校生徒が震撼するものもあった。「アタマが良すぎると大変だなあ…」と当時はぼんやり考えていた。
メンサがどういう場所なのかはよく知らない。彼らから説明を受けてもイマイチピンと来ない。IQの高い人たちが、IQの高い人たちにしかわからない会話をいつもしている謎のクラブ。私も含めた一般的な認識は、だいたいそのあたりで留まっているだろう。そのあたりの、天才たちと一般人との微妙な温度差を強烈に皮肉った明日のアー『ギフテッドクラブへようこそ』は、極めて新鮮なコントだった。天才たちのズレた会話は、阿呆の戯言と紙一重である。会員たちは、新人のIQが入会に値するか審議し、数々の難問を突きつける。そのうち、どちらのほうがアタマがいいかで子どもの喧嘩のように稚拙な揉め事が起こる。それに戸惑う一般人はしかし、喧嘩している会員たちよりも大人びて見える。もちろん、メンサはきっとそのような場所ではないだろう。しかし、大人になっても、アタマのいいとされている大人が子どものような喧嘩をする場面にたびたび遭遇するのは事実である。私は、私がアタマがいいか悪いか、心の底からどうでもいい、喧嘩しない穏やかな日常を送れていればそれでいいという、達観した気持ちになった。
たびたび劇中に登場する一輪車を利用した壮大なオチも含めて、30分のコントにしか出来ない、趣向の凝らされた、贅沢な時間だった。明日のアー、はじめての体験だったけど、また足を運びたい。感心と呆れのないまぜになった、アー、という間抜けな声を客席で漏らしたい。(綾門優季)