渋谷コントセンター

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2020年12月18日(金)~12月19日(土)

テアトロコント vol.49 渋谷コントセンター月例公演(2020.12)

主催公演

公演詳細

不寛容の時代に抗う革命戦士
不祥事を起こした結果の記者会見。正義の御旗を掲げ、鬼の首を取ったように詰問する記者たち。反吐が出て、1秒でも早くチャンネルを変えたくなる光景です。過ちを犯しことが事実なら反省しなければなりません。でも、だからといって、その人物が立ち直れないほど叩きのめしてよいという資格を有する人間はこの世に存在しないでしょう。人は多かれ少なかれ誰しも過ちを犯す生き物。胸に手を当て、我が身を振り返っていただきたい。そう強く願います。そして、もう一つ。記者たちは会見を開く人物を最初から極悪人と決めつけ、非難することを前提に強い言葉を浴びせてはいないでしょうか?もしかしたら、情状酌量の余地があるかもしれない。そんなことを少しでも考えたことはないのでしょうか?だとしたら、記者失格。即刻、転職すべきでしょう。結論ありき、固定観念に雁字搦めになった取材など全く意味がありません。そこに気づきや発見が皆無だからです。そんな凝り固まったメディア報道のあり方に大きな一石を投じたコントがファイヤーサンダーの「記者会見」。観る者によれば、問題作と非難されかねない、刺激的な作品です。
不倫の謝罪会見に臨む国会議員を演じるのは、ネタ作り担当の﨑山祐さん。その経緯を詳しく教えてくださいと厳しい目で問う記者をツッコミのこてつさんが演じます。で、事の顛末を聞いたところ、国会議員に殆ど非はなく、女性の誘惑を避けられなかったという予期せぬ事実が明るみに。そこで記者は思うのです。「しゃあない」と。「職業は?」「元グラビアアイドル」「年齢は?」「32歳」「服装は?」「ピタッとしたニット」ここで記者は確信を抱きます。落ち度はゼロだと。その時、女性記者(音声のみ)から質問が飛びます。「奥さんの気持ち考えなかったんですか?」それを聞いた記者は不思議そうに「あの人は何故、怒っているのか?」と問うのです。ヤバイでしょ、このネタ。もしかしたら、このコントも不謹慎だと糾弾され、二人は公の場で頭を下げる事態となるのでしょうか?まさかとお思いの方もいらっしゃるでしょうが、あり得ない話ではありません。不寛容が罷り通っている時代だからです。お笑いが純粋にお笑いとして笑い飛ばしてもらえない時代に生きているからです。
2年連続、キングオブコントで準決勝進出を果たすものの、決勝に進めない2人。もしかしたら、彼らが攻めすぎているからかもしれません。テレビに魂を売りさえすれば、たやすく叶うことかもしれません。でも、それでは彼らの魅力は半減してしまうでしょう。今を生きるコント師は、自らの力で不寛容の扉をぶち壊すしかないのです。それは途轍もなく大変な作業です。でも、それが成し遂げられた時、社会も一変するのです。(市川幸宏)

ヒコロヒーの演じる「自分」
ヒコロヒーは演目が終わるごとに頭を下げる。暗転した後に客席に頭を下げるコント師はよくいるが、ヒコロヒーはそうではない。演目の終わりを、演じた人物の身体によって伝えるように、ライトのついたままの舞台上で頭を下げるのである。その姿を見ると、「ヒコロヒー」という芸人の身体と、コントの中の登場人物の身体との境界線が、一人の人間の中で曖昧になるのを感じる。そして、境界線を揺さぶるヒコロヒーのコントは、生きるのに疲れる現代社会において、生き延びる術を伝えてくれる。
1本目に披露された『世界線』はスナックのママを演じるヒコロヒーが、自分自身を思わせる女芸人と話をするコント。現代の女芸人としての経験、感情がママを演じる身体から発せられる。その毒々しくも的を得た台詞に笑わされてしまうのであるが、その台詞を自分自身の身体ではなく、演じる人物の身体に託すところに可能性を感じさせる。一人称的な「自分」を二人称の位置に置いて言葉を紡ぐ。自分の主張をSNS等で簡単に発信することのできる現代では、自分の言葉を以前よりも強く求められるようになったと思われる。「自分」を必要以上に求められるとうんざりする。本当に「自分の」言葉などあるのか、深く考えれば考えるほどドツボにはまって鬱屈した気持ちになる。きっとこれは一人称的な「自分」に必要以上に向かっていってしまうからだろう。一度それを向こう側において、「自分」から脱することで、風の抜けるような強い言葉を吐けるのだろう。『世界線』に続くコント、『ボランティア』『懺悔室』『夏休み』では、登場人物としての「ヒコロヒー」の存在はなくなるが、ここでも自分自身の経験・感情がコントの中の登場人物に託されるかたちで言葉になる。しかし、最後に披露されたコント『山下埠頭』では、松竹に所属して深夜のテレビ番組に出る女芸人、つまりヒコロヒー自身を思わせる人物が演じられる。ここまでは「自分」から脱し、仮構された人物の身体に託して言葉が発せられてきた。が、『山下埠頭』では、自分のような芸人になりたいと言う女の子に対して、松竹に入るのはやめといたほうがいいと言うのは、紛れもなく芸人「ヒコロヒー」の身体から発せられる芸人としての言葉であろう。他人を演じることによって発せられた「自分」の言葉が、最後は「自分」の身体から発せられる。
1本目に『世界線』で「自分」を二人称の位置に置いた後、最後は『山下埠頭』で「自分」を一人称の身体に戻す。最後のコントは、そもそも「自分」という存在さえも仮構でしかありえないと伝えるのかもしれない。「ヒコロヒー」という芸人、自分自身の魂の叫びを聞いたように笑ってきたが、「ヒコロヒー」という芸人の存在も、それまでに披露されてきたコントの中の登場人物と並列する形で観客に披露される。「自分」の姿も、「演じる」ことによって作り出されるものとなるのである。今回の5本のコントは、本当の「自分」を否応にも求められてしまう現代において、「自分」を演じる様を伝えるものであり、軽やかに生きる術を伝えてくれるものでもあった。(永田)

安定感抜群、器用なファイヤーサンダー
【ファイヤーサンダー】
【ミス】上司(こてつ)が部下(崎山)に、書類の不出来を厳しく指摘する。その際、部下の様子がおかしく、「彼女が米国に行く飛行機の出発時刻が迫っていて気もそぞろ」だったことが判明。上司は気を利かせて部下を空港に向かわせ、彼女を引き止めるチャンスを与えるが・・という話である。冒頭、「部下はミスが多い」という人物設定が、中盤以降効いてくる無駄のなさ、情に厚く優秀な上司と気が利かず無能な部下という対比含め、物語性があり、惹きこまれる。
【占いの館】手相を見るなり、出身地、勤務地などをピンポイントで当てに行く(そして当然外す)占い師(崎山)を、相談者(こてつ)が占い師の素直さに好感を持ち、愛情を持って助言するシンプルな筋書きだが、テンポの良さとクスッとさせられる占い師あるあるが続き、飽きさせない。
【記者会見】国会議員(崎山)が不倫し、謝罪会見に臨む。記者(こてつ)は、厳しい追及をしようと意気込むも、国会議員の詳細な状況説明に、男のロマンが詰まっていたため、つい国会議員の味方をしてしまう。不倫会見で謝罪に終始する芸能人は数知れないが,当事者以外は直接迷惑がかかっているわけではないので、誠実にあけすけに不倫に至る経緯を説明したら意外と世の男性は味方してくれるのではないかというのは頷ける。本コントで最も笑ってしまった。作者の明確な思想が明らかになり好感を覚えた。
【子供の疑問】小学5年生の息子(崎山)に「子供はどうしてできるの」と聞かれ、最初はあいまいな返答をしていた父親(こてつ)が、徐々に息子に疑念を持つ。私は、崎山が小学5年生にしっかり見えることに感動した。「OXFORD」と書かれたいかにも小学生が持っていそうなシャツを着て、大人の話の理解に時間がかかる演技が巧みだった。

全てのコントを通じて、ファイヤーサンダーの器用さ、安定感は際立っていた。崎山はポンコツなボケ、こてつはボケに寄り添う常識人として役割が固定されている分、笑いの取り方は幅広い。テンポよく言葉を並べて笑わせたかと思えば、絶叫と間で爆笑をかっさらう。時には世論と相反する思想が強いネタをぶつけ、下ネタも扱う。コントに応じて多面的な顔を使い分ける総合力の高さに驚かされた。各コントの幕間に本人によるネタ解説があり、唐突なコメンタリーに一瞬面食らったが、流暢なトークを聞いて、「喋りも達者」という印象が残った。(あらっぺ)

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