渋谷コントセンター

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2016年12月16日(金)~12月17日(土)

テアトロコント vol.14 渋谷コントセンター月例公演(2016.12)

主催公演

公演詳細

笑っていいのかわからない
Aマッソ『星新一』『door war』:星新一の不倫相手が、彼のショートショート作品の案外雑な結末をクイズ化し、妻に出題する。爆弾ではなくドアが降ってくる戦争で、ショートコントを演じることでドアの鍵を開けていく。前者はAマッソ本人役の漫才として、後者は連続ショートコントとしても上演可能と思われる。普通のお笑いコンビならそうする。「普通でない設定」は、ヘタをすると「気取ってんじゃねえよ」と憎まれる。しかし彼女達は全く気取ることなく、不倫相手の性格や戦争の原因など、キツめの関西弁で設定をいじり倒す。設定のアイディアだけで満足せず、「ほっしゃん」等のくすぐりも随所に挿し込まれる。設定だけでも十分面白いのに、台詞の一字一句まで神経を配る。自分で作ったおもちゃを遊び尽くすような無邪気さと貪欲さを感じた。
ワワフラミンゴ『チェニジアの夜』:三人姉妹の会話が始まり、いつの間にか終わる。別の登場人物が登場し、別の会話が始まる。その後も、断絶されたり、接続されたりしながら会話が数珠のようにつながっていく。台詞は、何気ないようで研ぎ澄まされている。会話から会話へのジャンプは唐突だが、台詞そのものは日常をギリギリ逸していない。でも少しヘンだ。このヘンさが笑えるし、可愛い。四人目の女性を演じた古郡加奈子(本職は絵本作家)の存在感が素晴らしく、この作品を象徴していたと思う。落ち着かなくて、雰囲気が柔らかくて、台詞は本質を突いていないようで突いている。音楽も映像もなく、大袈裟なプロットもなく、淡々と劇が展開されていくが、落ち着いている部分(役者の雰囲気や演技力)、落ち着いていない部分(劇の流れや古郡氏)のバランスが面白く、静かで長尺だが飽きなかった。
東葛スポーツ『何者』:かつて放送されていたバラエティ番組『マネーの虎』のような空間で、チマチョゴリらしき衣装を着た女性が、吉田栄作と審査員にあるアピールをする。彼女が欲しいのはビジネスへの投資金ではなく、認可保育園の入所点数だ。審査員役は舞台に登場せず、後方スクリーンに映る『マネーの虎』のコラージュ映像がその代わりをする。コラージュにより既存のモチーフに別の意味が生まれ、彼女の「面接」が成立していくさまは、TBSラジオ『爆笑問題カーボーイ』の「CD田中」のような気持ちよさがある。しかし、彼女の抱える事情が明らかになるにつれ、観客の居心地はどんどん悪化していく。審査員席があるのは、劇場の空間では観客席にあたる。我々観客も審査員の一員となった錯覚を覚える。「在特会」や「日本死ね」「AVデビュー」など、笑えない/笑いにくい状況が重なっていく。気づけば、就活・面接をテーマにした映画『何者』の主題歌が爆音で鳴っている。彼女を審査させられている居心地のまま、笑っていいのかどうかわからず、整理のつかない感情が突き上げられた果てに、物語は最悪の結末を迎える。終演後のアフタートークで、作・演出の金山氏が「あなたは左派なのか?メッセージはあるのか?」と問われていたが、質問したい気持ちがわかる。落ち着かないのだ。「これはメッセージのある演劇ですよ」「ここは笑うところですよ」「すべてフィクションですよ」と言われてほっと落ち着きたい。でも、そういう居心地の良さは劇中も劇後も一切提供してくれないのだった。その姿勢はとても誠実だと思う。むちゃくちゃ笑った。でも、笑ってよかったのか自信が持てないし、笑って「よい」のを誰が決めるのか、途方に暮れる。
犬の心『路上』『親』『熊』:シンプルなタイトルの三本のコント。内容もシンプルで、逃げ場を作らない。観客がいると歌えない路上シンガー、謝罪の感覚がおかしい親、技術の無いお化け屋敷のスタッフ。おそらく観客全員が「どこを面白がるか」を共有し、同じ部分を見ていたと思う。その中で笑いをとるのは、相当な技術が必要だと思う。今回出演した四組の中で、「この登場人物は実在する」と最も思わせたのが彼らだった。どの登場人物も、その辺にいておかしくないリアリティがあった。特に『熊』の先輩スタッフ。地味で出世はしないが技術があり、後輩に愛されるあの先輩。そこまで感情移入が出来たからこそ、あのオチは本当に面白かった。
全体:「笑う部分の見つけやすさ」という点で、四者全く異なるアプローチを見せた。プレゼンのように巧みで明確な犬の心。一見複雑だがツッコミで道標をくれるAマッソ。普通の台詞とボケの区別が曖昧なワワフラミンゴ。笑えるが、笑っていいのか分からない東葛スポーツ。個人的には、「コント」の枠を目一杯使い、心を引っ掻いて傷を残してくれた東葛スポーツが一番好きだった。(森信太郎)

4組が目指す笑いの幅を味わえた
1組目のAマッソは星新一の妾が正妻にその小説の結末をクイズで当てさせる『星新一』、そして戦時中に街に降ってくるドアを開くためにコントを披露しなければならなくなった状況を描く『door war』の2本ともにねじれた世界観で観客を困惑させ、そして知らない間にその混沌に見ているものを引き込んでいくコントで、知性と馬鹿がうっかり同居してしまったような中毒的な魅力があった。特に後者は、演劇とコントの融合という点から見て一つの到達点なのではないかと思わされた。アフタートークで本人たちは「迷走している」と話していたが、そんな迷走も舞台の上で見届けたいと思わせるような未知の想像を搔き立てられた。
2組目のワワフラミンゴは4人の女性の何気ないようで、少しずつ狂っていく会話の暴力的な脈絡のなさが心地よい一本だった。無秩序に見える物語の中でひそやかに伏線が回収されていく抑制のきいたテクニックが見事だった。その中で語られるロミオとジュリエット、そして夢の話という非現実的な現実の中での語られる物語が次第に現実味を帯びてくる不思議な感覚を覚えた。「私、ジュリエットに憧れてるの。」「死にたいの?」という一節が強く印象に残った。舞台とは対照的なアフタートークの危ういたたずまいにも何かわくわくした。Aマッソとの犬猿の仲(?)もふたたび見てみたい。
3組目の東葛スポーツは認活(認可保育所に子供を入れるための活動)という親子の人生を左右する活動を金が舞い飛ぶテレビ番組の中に入れてしまうという突飛なようでどこか2016年の現実を思わせるような設定の『何者』で、コントや演劇という枠組みを軽く超えてしまうような鋭さを持った作品だった。そこから現在の様々な問題を台風のように巻き込んで、物語に昇華させる技能は驚嘆に値する。同名の映画の中で語られる「私たち、もう戻れないところまで来たんだよ。」という言葉が絶望を一直線に指し示す刃のような言葉に変貌し、そこに続くラストは絶句せざるを得ない衝撃的なものであった。コントを目当てに見に来た客がうっかりこの劇薬のような作品を見てしまう可能性こそ、テアトロコントの中心的な意義の一つともいえるだろう。
4組目の犬の心は安定した技術でトリを見事に飾った。特に3本目の『熊』はお化け屋敷のアルバイトが演じるゾンビがどうやっても熊に見えてしまうというおかしな設定を確かな演技力によって大きな笑いに変えていた。ただ、前の3組が独自の異なるインパクトを持った演目を披露した分、ラストの犬の心がどうしても全体の印象としては弱くなっているのではないかと感じた。次に出る際は、こんなことを書いたのが恥ずかしくなるようなコントを見たいと思う。
今回は4組ともそれぞれが指向している笑いに幅を感じられるような、厚みのある舞台だった。それもここまでテアトロコントを続けてきた成果かもしれない。今回はどの組も複数回目の登場ということでなんとなく勝手もわかってきたのではないかと思うが、そんなベテラン(?)組と初めての組による新たな化学反応をこれからに期待してみたい。(カシワギ最中)

「何者?」劇場が熱狂に包まれる日
映像を切り貼りして笑いを生み出す手法は、別に斬新でもないんだよなぁ。とりわけ、アクの強い面々が揃った「マネーの虎」の映像は、今、観るだけで、もう笑える。ハッキリ言って、ずるいよ、コレ。と思ったのも束の間、いや、コレは目先の笑いを取りに行ってる訳じゃない。あっ、ヤバイものを観ている。と、すぐさま、身構えましたね。客席もそれを察知したのか、次第に笑いが薄れていきました。でも、コレが私たちに思考を与えてくれたのです。
まずは、キムチの救急車。気になるワードですねー。家にキムチがなくなった時、買いたくても買いに行けない人たちがいる。彼らのために、いつでも売りに行くという商売。いい着眼点ですね。でも、買いたくても買いに行けない人たちって、一体、誰って思いますよね?答えを聞いて納得。ヘイトスピーチをしている人たち。ココ、笑うところ、ですよね?でも、思ったほど笑いが起きない。あれれ?もしかして、みんな、躊躇しているの?コレ、ライブだよね?放送コードに縛られない、自由な表現の場じゃないの?客が委縮してどうすんのよ?劇場を覆う不穏な空気が今の日本の閉塞感を表しているようで、何ともはや、という気持ちになったのであります。
キムチの救急車は24時間体制。そこで、起業した女性は、我が子を保育所に預けたいと、映像の虎たちに掛け合います。そう、懸案となっている認可保育所問題、コレがこの作品の主題です。幼子を抱える母親は現状を訴え、虎たちに力説するものの、結果はノーマネーならぬ、ノーチャイルド。このワードの響きがナンセンスでおかしいのですが、不思議と笑いは炸裂しない。変ですね。女性はこの世に愛想を尽かし、Twitterを上げます。「保育園落ちた、日本死ね」と。そして、鬱憤を晴らすかのように思いの丈をラップで叫び、悲劇的な終幕へとなだれ込みます。
オチは笑えるものではありません。しかし、笑いは随所に盛り込まれています。なのに、実際の笑いはさざ波程度。笑えないコントがあったっていい?演劇だから笑えなくてもいい?そうじゃない、私たち観客の側に足りないものがあるのです。それは、笑いに対する度量。多様な笑いを受け入れるという寛容性。
政治のレベルは国民のレベルに等しいと言われますが、文化レベルも同様です。笑いという文化をさらに発展させるためには、観る側のレベルを上げなければなりません。悲しいかな、テレビに多様な笑いが期待できない今、その欲求を生の舞台に向ける人は、今後、益々増えていくでしょう。「テレビではできない、観られないコント」を標榜する「テアトロコント」、その役割は絶大です。そこへ行けば、今までに経験できなかった何かを味わうことができる。行こう、渋谷へ!集まった観客は、現代社会をあざ笑うかのような作品に、雷のような衝撃を受け、口々にこう呟くでしょう。「あいつら、何者?」
主宰の金山寿甲さん、胸を張って答えてください。「我等が東葛スポーツだ!」(市川幸宏)

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