渋谷コントセンター

文字サイズ

2017年7月28日(金)~7月29日(土)

テアトロコント vol.20 渋谷コントセンター月例公演(2017.7)

主催公演

公演詳細

俯瞰で捉え、えぐり出す、人という生き物のどうしようもなさ。
大学で教鞭をとる父親(神谷圭介さん)が教え子(浅野千鶴さん)と出来てしまい、もしかしたら、新しい母親になるかもしれない。中学生時代、そんな状況に置かれることって、よくありますよね。多感な時期に抗えない現実を突きつけられ、大人が信じられなくなった中学生を玉田真也さんは過不足なくリアルに演じ、冒頭から客の心を掴みました。目を合わさず、所々声を震わせ、短い言葉を吐き捨てるようにして、会話のラリーをブロックするという手法は、思春期か否かは問わず、誰しも経験あるのでしょう、大きな笑いを生み出す効果がありました。
が、この後、突然、ぶっきらぼうだった玉田さんの口調が流暢なものへと変わります。実は、彼は舞台の演出家で、冒頭のシーンは演劇の一場面であり、その稽古シーンだったのです。客として、文字通り、客観的に観ても申し分のない演技を見せた3人ですが、演出家を演じる玉田さんは2人に厳しくダメ出しをします。「もっとイライラして」「少女を挟んで」などなど。そのどれもが、客観的に観ても、今度は全く的を射ていないのだから、2人の役者が苛立ち始めるのも当然です。不可解な演出が続き、痺れを切らしたのか、役者の不満は台本にも向けられます。納得いかない様子の演出家に「流れで見てないから」と言い、実際に演じてみる役者陣。明らかに不自然、ありえないほどの唐突感。でも、自分を否定したくないからか、演出家はすんなりとは同意しません。いますよね、こーゆー人。でもって、役者が何とか演出の意図を汲み取ろうと歩み寄った発言をすると、「そうそう」と乗って来る。自信がないから、相手に合わす。責められると、きょどる。取り繕うことしか頭にない。こんな人が身近にいたら、ましてや、上司や組織のトップだったりしたら最悪ですね。でも、実際、こーゆー人はたくさんいます。玉田さん演じる、ダメダメ演出家の言動が、全く不自然ではなく、共感の笑いとして爆発していたことからも分かります。
それにしても驚かされるのは、玉田さんの冷徹なまでの客観的な視線です。だって、そうでしょう。大人を毛嫌いする中学生をリアルに演じると同時に、その舞台を演出する演出家のダメさ加減までもリアルに演じ、尚且つ、そうしたメタ構造のコントを作り、自身で演出しているのだから。玉田さんは驚くべき高所から下界に蠢く人間たちの営みを俯瞰で見つめているのです。氷のような眼差しで、シニカルな笑いを浮かべながら。(市川幸宏)

公演の内容について。
ラブレターズ「動物失格」他3作品。動物が嫌いな気持ちなら分かる。だがこのケースはそう単純ではない。溜口のペットがいなくなり、溜口を心配する塚本。「溜口を心配する」と書いたが塚本はペットを「探し物」と書くほどに動物を特別視せず溜口のことだけを心配する。動物に対しての感情が薄い(ゼロだと言われるがマイナスではない)。ペットの値段を聞くことでその損失、痛手を計量する(動物の代わりに原チャリやダッフルコートで想像する)。似た新しいやつ、新品を買ってやると進言する。止まらない。金魚は「景品」であり、ちゃんと「仕舞って」ある。ドナルドダックを「鳥」と呼ぶ。塚本の中ではペットは「ドラム缶」と同程度の関心である。ただ仕方ない。習わなかったから。こと友情には分厚い。それは矛盾ではない。彼をサイコパスと呼ぶのか。皆がただ動物への感情が分厚いだけなんじゃないか。どうしたら分かってもらえるのか。お互い習う必要がある。
 うしろシティ「ひきがたり」他2作品。山梨の県庁所在地、甲府の駅にかつてB’zがいた。文化祭間近の帰り道に(体育館で高校生バンドがライブする用のステージを設営する為だけに組織された「ロック係」に、軽音楽部でもなく友達もいないためバンドも組めず、でもなにかしらバンドっぽいことに関わりたいという気持ちで立候補し、ただただ重い機材を運んだだけだったその帰り道に)「おーしゃーん」とB’zの「OCEAN」を弾き語る声が遠くから聞こえた。B’zは弾き語るものじゃないだろと思いながら通り過ぎる時、向かいから手をつないだ親子が来た。娘がB’zを指差し「ママ、あれが『シンガーソングライター』って言うの」と尋ね「そうだよ、よく知ってるね」と母親は答えた。B’zに聞こえたかは知らないが気持ち良さそうに弾き語っていた。シンガーだけどソングをライトしてないと思う。
 玉田企画「反抗期」。前作「変心」と基本設定は近かったのだが、ただ一つ全体を揺るがす大きな変化があったと言わざるを得ない。つい先日、友人の映画上映がイメージフォーラムであり、その作品は自作自演と称して監督兼主演というキャスティングとなっていた。上映後のティーチインで挙がった話だが、撮影中、監督として「アクション」「カット」の掛け声はするが、例えば俯く主人公というようなシーンでは周りが見えず、他の役者がどういう動きをしていたか分からず、何を持ってその場で「カット」として良いか分からなかったという発言があった。前作の玉田企画と今作の玉田企画で決定的な違いがあるとすればそこである。今作では玉田氏が演出家兼役者として登場する。問題は今作で玉田氏が試みたのは「演出家兼役者を含む座組みの作品」を演出した作品である事だ。、、、ここで紙幅が尽きたようだ。決して複雑過ぎて手に余ったのではない。誰か近くの批評モニターが良い事書いてくれているはずであるからそちらを参考されたし。お願いします。
 チョコレートプラネット「手紙」他2作品。私の記憶違いだとしたらごめんなさい、手紙魔のフランツ・カフカは「先程の手紙はもう届きましたでしょうか」という内容の手紙を送ったとどこかで読んだ記憶があります。返事を待たず何通も送りつけるその姿勢、今作とどこか通じる部分があるな、と思いました。手紙に書いてある「ありがとう」を音読した後に相手を見て言う手紙ではない「ありがとう」。あれには笑ってしまいました。後あれもです、手紙なのに会話が出来てしまうというところ。とっても面白かったです。手紙とは何なのでしょうか。いろはに千鳥に視聴者が送ったページが増え続ける手紙。小島信夫の一連の書簡小説。それらは何故面白いのでしょうか。手紙を「読む」(それは音読でも構いません)階層の豊かさ、「読みネタ」(必ずしもそこに文字が書いてあるとは限りません)の可能性を拡げて下さった事に感謝いたします。追伸、お声、ご自愛下さい。(小高大幸)

TOP