渋谷コントセンター

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2018年7月27日(金)~7月28日(土)

テアトロコント vol.28 渋谷コントセンター月例公演(2018.7)

主催公演

公演詳細

翻訳不可能な「中華」
私は英文和訳の仕事をしている。十月に出る初の翻訳書のために日々「翻訳とは何か?」を足りない頭で考えているが、考えれば考えるほど「訳せない」ものの存在が目立ってくる。
小説であれ詩であれ、翻訳は困難な作業である。人間の感情や思考がその言語と密接に関わっている以上、「完璧な翻訳」は不可能なのかもしれない。どんなに力を尽くそうと、ロスト・イン・トランスレーション(翻訳による意味の喪失)が必ず生まれてしまう。しかもそれは英語と日本語どころではなく、標準語と関西弁でも容易に起こる。
ガクヅケのコント『ゆみ子』の構造はシンプルだ。ある男が産婦人科の待合室で、妻のゆみ子の出産を待つ。赤ちゃんの鳴き声が聞こえ、男が下手に駆け寄ると、そこに餃子の王将のCMで流れるような中華っぽいBGMとともにチャーハンを手に持った産科医が現れ、男が「中華やん!」とツッコむ。そっと退場する産科医。こんなことが何度も繰り返され、男の感情は諦めに支配される。鳴き声がしても「どうせ中華やろ…」と腰は重い。それも当然だ。別の中華っぽいBGMが鳴ったときも、それは赤ちゃんではない。単に海老が追加トッピングされたチャーハンであり、所詮は「中華」なのだ。
ここで想像してみてほしいのは、このツッコミが標準語の「中華じゃん!」ならば面白さは失われるか、ということである。かなり失われる、と筆者は思う。そもそも、産科医が手に持っていたのはチャーハンである。チャーハンという中華料理を、関西弁のイントネーションで「中華」とひとまとめに呼ぶ感覚は、同じように標準語で「中華」と呼んでも再現できない。例えば大阪のサラリーマンが仕事終わりに、同僚を「中華行こか?」と誘う。全く同じシチュエーションで、東京のサラリーマンが「中華行こうか?」と誘う。異論はあろうが、前者の店は安く、小汚く、しかし美味いと想像できる。それに標準語では「中華料理」と言う方が自然かもしれない。当然だが英語でChineseとしたらもう、全く違う台詞である。不要な「中国人」のニュアンスまで出てしまう。歴史・言語・文化が密接に絡み合い、中華と中華とChineseは、別の単語になったのだ。
この公演の前日、筆者はAマッソの単独ライブを観に行った。おそろしい偶然だがそこでも、中華料理を「中華」とひとまとめに呼ぶコントがあった。ここではチャーハンだけではなく様々な中華料理が登場したが、ここでも関西弁の、標準語では絶対に醸し出せない「中華」のニュアンスが根幹となっていた。
つまりガクヅケの「中華やん!」は、それほどまでに研ぎ澄まされた、一語も動かせない、標準語にすら「翻訳」できない完璧なセリフなのだ。関西弁の理解できる環境に生まれ、標準語も扱える日本語ネイティブである自分。この完璧さを味わえるその状況を、筆者は幸運に思う。(森信太郎)

東葛もまた編集である/エクスパンデット・シネマかインターメディアか/次のルールではなく、とりあえず別のリアリティへ
―いわば十七世紀オランダのチューリップ栽培の熱狂的流行のように。(D・バーセルミ)
 東葛スポーツは何が違ったか。まず空撮の映像から始まる。否、まず壁に「東葛スポーツ」の文字が投影されている。その黒い壁が上昇し、背後の白いスクリーンが顕になる。そこでやっとヘリによるビル群の空撮、リチャード・アッテンボローによる1985年作映画「コーラスライン」の冒頭が映し出される。空撮には数多くのデザインレタリングされた英文字が重なる。カメラはある一つのスタジオに闖入し、そこではブロードウェイのオーディションが行なわれている。選考の様子、それらのシーンの使いたい最低限必要そうな部分のみが抜粋されていく。審査員役のアフレコが入り、観客席後方や舞台袖からマイクを持ちサングラスを掛けた役者が舞台上に並べられていく。そのように東葛スポーツの「コーラスライン」は始まっていく。そっからは「いつものアレ」なのではしょります。東葛スポーツの何が違うのであろうか。私の回答はこうだ「リアリティ」が違う、と。一体どういうことだろうか。別の言い方をするならば扱っている「メディウム数・レイヤー数」が違う、と。個人的にはこう言いたい「東葛スポーツはインド映画だ」、と。「異種混淆的に接続されるシークェンス」(北村匡平)。私たちはポストメディウム的状況にいる。岡﨑乾二郎が「あふるるもの」で語っていたことを思い出して欲しい。端からメディウムとはポストメディウムであった、と。説明はしない。というかできない。読んでもよく分からなかったからだ。でもでも、要は演劇、マームとジプシー、バストリオ、円盤に乗る派、冨士山アネット、犬など等が扱っているメディアの数が多い、というか演劇なのにめっちゃ映像とか使うなーという、で、で逆にですねお笑いはルール設定してそれを小ズラししてくの多くない?という話なんです。マームとジプシー主宰・藤田貴大は昨今編集言語を演出に援用している。ある一塊の場面のことをコンポジションと呼び、そのシーン内の要素をレイヤーとして理解している。ポストチェルフィッチュにおける最大の発明としてのリフレインという手法、その運用も進化しており、役者の配置をダンス的に入れ替えることによるカメラワークを思わせるリフレイン、動作と音声を【リンク解除】し役者は不動のまま別シーンで同じ音声のみを再生させるリフレイン。バストリオによる「ドキュメンタリー編集の技法を用い」た演劇や、犬などによる「映画的な手法」。映像とか音声とか照明、あと役者と美術、とかをリアルタイムで編集していくというようなイメージでの演劇というか、藤田貴大最近「配置」ってめっちゃ言ってて配置は3次元空間下における小道具の配置、大道具の配置(マームでは役者がセット枠みたいなのすら動かして室内外とかのシーンを仮設すらするので)、役者のポジションで、あと編集環境下における空間、プレミアプロ的アフターエフェクト的なプロジェクト内のシーケンスの配置、コンポを再配置、それらは実空間内では時間・タイミングとして表出する。ジャン=リュック・ゴダールが言う映画における「3つのP(撮影・編集・上映)」それが同一空間内で同時に行われるような種類の演劇。が少なからず増えてきているのではないかという予感。をここに提出したい。ヌトミックでは室内ドローンがあった!。私は常々友達に言ってきた「撮影の前の編集が演出であり、撮影の後の演出が編集である」。?。「ルール」の話をしよう。地点の主宰・三浦基はまずルールを設定するという。それに応じ既成戯曲や劇作家が書いた戯曲から演出が決定されていく。(なお地点の劇伴を多く行うバンド空間現代もまずルール・構造とインタビューで言っていた、お似合いなのである)。これはでも最近のお笑い、ガクヅケとチョップリン当てはまる部分あると思うんです。赤ちゃん生まれたら中華だったり、見てくるって言って見てこなかったり、で、ルールが追加されてってたり。あと差し変わったりで別のルールが設定されたり。そこでのルールのズラしや追加のストロークの気持ち良さみたいなので笑っていくのです。劇団「地蔵中毒」はどうか、ぼく脳的シュルレアリスムの演劇側からの回答、濃いキャラクターを演じ、文体・様態はマルチブート(佐々木友輔)、範宙遊泳やロロなどの試み、いろいろなデザインが同居する場面が設計されており、それが「次の瞬間どうなるか分からない」かと思いきやアンビギュイティなご都合主義に走り逆に「次の瞬間どうなるか分かる」明示的な達成もある。保坂和志が「保坂和志と磯崎憲一郎は50P目のシーンを見て次のシーンをどうするか考え、小島信夫と山下澄人は50P目のシーンを書いている時の状態を受けて次をどうするか考える」という今では完全に保坂和志後者になっちゃってますが、今回あったアホみたいなメタ「昨日考えたようなセリフだろ」みたいな一旦作者を介しもっと他所に飛んでいけるのではないかと。劇団「地蔵中毒」もある意味でルール自体は一様なんです。もとい、ノイズ声とか星野源カバーにこそ可能性が?。必要なのが「別のリアリティ」(土居伸彰)。そこで電話が鳴った。「お疲れ様です。先程送って戴いた中途原稿の3つのPの話ありますよね、アニメってどうなんですか?」「アニメ?」。レフ・マノヴィッチが提唱するように実写映画はアニメ表現の一ジャンルでしかない。その状況に一番即したのが東葛スポーツだ、あとイエローハットのCMだ!、冒頭に示したようにノン・ヒューマンの状況から始まりそれはジェームズ・カークウッドとニコラス・ダンテによる1975年作ミュージカル「コーラスライン」を映画化した「同」であり同時に東葛スポーツの「同」でもあった、役者は画面に映る役者と似ても似つかない、だが「見立て」のコードの力によって何とかパスしあえる、別のリアリティ同士のものが私たちの脳でデコードされていく。東葛スポーツは編集台それ自体の謂である。否、王様のブランチ瞬間最高視聴率ランキング(義母ブルのジャンプカット!)。というか最も的確なのは雑誌です。いやスポーツ新聞。天皇の家系図と伊調馨の輪郭がダイアグラム化(平倉圭)され重ね合わされる。「もう字数がない」と私は独りごちた。「そうだよね」とSPEEDのメンバー4人がmy graduationのサビ前に魅せた合声で答えた。批評は小説は単線的な構造を持っているの。いとうせいこう・磯崎憲一郎が言ってた。新聞家の最近も単線構造を持っているわ。パンクブーブーも。サンダルのベルト調整ができるかできないかが最後に開示され未然の状態のイメージがドラスティックにバタバタと書き変わる。コンバーターとしての人間。人間は半透明になれないの。したためでは半透明になったわ!。舞台上を占める容量がある。画面に映るそれらならディゾルブできる。あと東葛にはラップもあったね。発話方法から変更されるそれは地蔵中毒にもない。ルールの複雑化に向かうのではなく、とりあえず別のリアリティに乗り換える。現実の反映ではなく反映の現実(JLG)が実現(森敦)する。MRです。その無理めなパスは観客の習慣(三浦哲哉)を拡張していく。男「でも今回東葛一番ウケてなかったよね」SPEED4人「そうだよね」(小高大幸)

飄々と暴力的の強さ
今回の東葛スポーツは、主宰の金山氏が講師を担当しているENBUゼミナール俳優コースの生徒達の中間発表公演であり、映画『コーラスライン』を元ネタに、これから様々なオーデイションを経験するであろう生徒達に寄り添ったもので、更に内容はこれまでの東葛スポーツで演じられたネタやラップの部分部分を切り取ったものの再構築という、色んな場面でメタを感じさせてくれた。
『コーラスライン』というオーデイションをテーマにした映画を元ネタに、過去の自身の公演で行ったネタとラップをサンプリング的に配置し、また今回の演目用にその過去ネタに意味を持たせる為の流れを作っている、その仕組みが目を見張った。ヒップホップの思考をそのまま演劇にトレースして、再構築により新しい仕組みで魅せる東葛スポーツを引き続き追っかけて行きたい。

ガクヅケ
ガクヅケはコントが5本。ボケのパターンを1つで押し切るものが多く、前の東葛スポーツがENBUゼミナールの生徒達のオーデイションという多少リアリティのあるもので、30分1本をたっぷり観せる演目だったため、良い意味で緊張感が緩み、楽しく観れた。
両者ともボケツッコミが出来て(しかもとても勢いのある気持ちの良いやつが)、ツッコミ不在もイケて、歌ネタ・リズムネタも出来て、ナンセンスもイケる、全方位的に能力値が高い事を感じさせた。
1つのパターンのボケというのも、歌ネタの中に「女のホームレス」というワードが天丼的に放り込まれた後に"本当に女のホームレスか?髪の長い男のホームレスじゃないのか?"という展開が入ったり、野球部監督と部員の「帰れ!」「はい!」のやり取りがどんどん明後日の方向へ話が展開していったり(そこで「いいえ!」と反対を言うこともあるギミック時の客の笑い具合は凄かった)、そのパターンを軸にどう展開させていくかというネタを、演者力の高い2人が演じたためとても楽しかった。

劇団「地蔵中毒」
批評モニター用に劇中何が起こったか色々メモしているのだが、劇団「地蔵中毒」に関しては、それを見返す意味が無かった。
「Youtubeに上がっている、知らない人の歌う星野源」「何の知識もないまま知らない会社の株を買う」「僕は奴隷、人権が無い」「喋ると金属音が鳴って収録にならない」「アラブの盗塁王に金は無い」などと書いてあった。見返す意味が無かった。
演目は『南』と『新宿』の2本で、前者は「はいさ〜!僕は沖縄のヤバイ奴!」と一言発した所から、後者は「タクシー代払うから家、ついて行ってイイですか?」とスタッフが一般人をリンチする状況から、数珠つなぎ的に、でも繋がりなど全く無いボケを繰り出しまくるもの。
思い出すのは中学や高校での、暗い性格の者でしか共有出来なかったあの独特なノリでゲラゲラ笑う時。地蔵中毒は今回初めて観たが、多分どの作品もそのノリだろう。流れとか、秩序とか、作品性とかそういう事じゃなく、何でか分からないけど涙が出るくらい、腹がよじれてるくらい、声が出なくなるくらい、意味の無い事で笑ってた事を思い出した。そして少し迷惑になっちゃったかもなぁ〜というかぐらい笑った。メモには最後、大きな字で「姫が笑った!」と書いてあった。

チョップリン
地蔵中毒が破茶滅茶にした場を完全にらかっさらったのがチョップリンであった。
2本目の演目『店にて』。息子の為に誕生日ケーキを予約した西野が店に入る。コック帽を被って目が虚ろの小林が「ケーキは出来てねぇ」と言う。「予約した!」と西野。「してねぇ」と小林。「ケーキ持って来い!」と西野。「出来てねぇ」と小林。「ケンタが待ってる!」と西野。「ケンタなんて知らねぇ」と小林。ずっとこの調子だ。ここから小林が裏へケーキがあるか見に行く流れが出来る。だが「見てねぇ」と小林。キレる西野。「小便行ってた」と小林。小林のこの調子のボケにそろそろ限界が来たのと同時に西野のツッコミのテンションが暴力的に上がってくる。「見てねぇ」と小林に返された瞬間、机をバンバン叩いたり、また別の時は机に乗っかって暴れて降りながら「何で見てへんねん!!」とあまりにも過剰にツッコむ。客席から見て気狂いが小林から西野へ移り変わった時の爆笑具合は今回の公演のハイライトであろう。小林も本当に引いているように見える。そのぐらい西野のテンションが凄まじかった。そして、良きタイミングで小林が「ケーキを作ってくる」と言って、小ぶりのシュークリームを作ってくるという、別の気狂いボケを持ってくる。「どの角度からボケてくるんだ」と思いながら猛烈に笑った。

今回の公演は四者四様に全然違う角度のものを観させてもらった。ヒップホップ思考、全方面的に高い構成力・演者力、無秩序…。だが今回一番印象に残ったのは、飄々としたボケと激しいツッコミという、至極単純なその人達の持ち物だった。(菅野明男)

語り過ぎず語らな過ぎずあってほしい
ヒップホップと演劇はくっつきそうでくっつかない関係がある。東葛スポーツはヒップホップを手法に取り入れていたが、ヒップホップはヒップホップでしかないなとあらためて思った。それほどの強度のある表現であって、生半可じゃ火傷するぜと案じてしまった。俳優が演技をするようにラップするにもテクニックが必要だと思う。そのテクニックをいらずとも行える演劇使用のラップになっていなかった。批評をヒップホップでする、演劇でしないんだ、ならヒップホップすればいいんじゃないかなと思った。新聞メディアの忖度のレベルで右か左か決める設定に面白味はあるので、そこを伸ばさないのはもったいないなと思う。コーラスラインの映像にしてもいらないなと思うのは演劇のなにも無いものへの観客の自由な想像による可視化がそがれてしまっている。人が一列に並べばそれでオーディションであるし、説明には事足りているので映像が余計に思えてしまった。初々しい役者がいるのに勿体なく自身の掲げたものにがんじがらめになっているようで様式に縛られた窮屈な演劇に見えた。続く男性ブランコは0からコツコツとコントを立ち上げる紳士な姿勢に好感を持てる。小道具などもセンスを魅せ観客も好感を持って舞台に参加していたと思う。けれど私は毒が欲しい。エンターテイメントは善意だけでは物足りない、観客に柔らかいものばかり提供しても感覚に変化が乏しいものばかりではやがて飽きられてしまう。男性ブランコの持つ優しさが僕には観客に合せた優しさしか感じられない。劇場で対話を行うためにも優しさにバリエーションが欲しい。もう一枚、いや四枚ぐらい脱いだ男性ブランコが見たい。パーパーはわかりやすく、自身の身体性を活かせる構造を作りパーパーというスタイルを作り上げている。大体の劇構成はメンヘラの女性に転がされる男性と言ったものだけれど、それに飽きないのは人の不幸を食い物とする観客の欲深さか。分かっているけどやめられない観客と共犯関係がいつのまにか結ばれていることがパーパーの策略であり弱者を演ずる道化なのである。
テアトロコント特別編で頭角を現した地蔵中毒は相変わらずの無教訓意味なし演劇。しかし会場は跳ねていた。しかし観客の期待とともに作風に自ら飽きるか、変更を迫られるか将来つまり先を案じてしまう。現代のワードセンスは感じるがそれを羅列しただけでは文字で勝負することが多く、小道具にしても絵的な笑いで、概ねウェブの面白コンテンツ扱いしかされないことを危惧する。これだけ面白いことをやりたい奴らが集まる集団として成してることは今のご時世輝かしく見えるのは私だけだろうか。劇団じゃなく集団としての寂しい演劇界に劇団の灯りを灯して欲しいと思う。無教訓意味なし演劇と語っているわけだから、教訓意味あり演劇の引き出しもあるはずなんだから。(島村吉人)

パーパーがキャッチーで震えた。
【1】東葛スポーツ<演劇人>出演者:10人/★★☆☆☆/映画『コーラスライン』のオーディション映像が流れ、その続きの体で、舞台に俳優が登場する。俳優を好きな新聞の思想順で並べ替え、赤裸々な過去の回想をなぜかラップで披露する『コーラスライン』一作品。主宰が担任するENBUゼミの生徒を出演させ、得意の芸能、皇室などの時事ネタラップを披露する企画だが、ラップが今まで一番上手に聞こえたのは新世代の耳が為せる技か。今回は過去作品に比べかなりライトな作品だったので、特別な感想は浮かびにくいのだが、この団体は企画の独自性が売りだと思うので次回に期待したい。
【2】男性ブランコ<コント師>二人組/★★★☆☆/「どんなところを旅したのか、話して聞かせてよ」。焚き火をしている旅人に村の少年が尋ね、早いオクラホマミキサーを踊る不思議な村の話を聞かせる『ハイパーオクラホマストロングミキサー』一作品。コント師側のコントにしてはスローテンポで拍子抜けだったが、童話的物語と笑いを融合させようという試み自体は好きだ。初見だけで判断するのは早計なので、再見したい。
【3】パーパー<コント師>/二人組:人/★★★★☆/彼女を怒らせた彼氏が、冬空の中ベランダに閉じ込める罰を受ける『ベランダ』、出会い系で会った女性のカバンにナイフを見つけ、スパイだと慌てる『出会い』、リレー選手に選ばれた男子が、選抜日を休んだ足の早い女子に、代わりに走ってと押し問答する『中学生』、山林で指輪を渡しプロポーズするが、花火のサプライズで指輪を落とす『サプライズ』計四作品。初見だが、全作品一点の文句なくわかりやすく笑えた。全て”ほしのディスコ”一人で作っているようだが、細かい言葉のチョイスも過不足なくハマっていて才能が迸っていた。アフタートークで、自分が喋り終えたら喋ってと相方の”あいなぷぅ”に伝えていたり、練習は本番当日直前のみと、信じられない即席感だが、そんな適当なしくみであれだけの面白さが生まれてしまうことに、ほしのディスコの誰でもわかる可笑しみを見つけ出す力を感じずにはいられなかった。
【4】劇団「地蔵中毒」<演劇人>二人組/★☆☆☆☆/「オッスおら沖縄のヤバいやつ!」沖縄の男性二人、偉い墓を蹴って足を痛めた歌手、偉い墓の孫などが現れては仲違いし、「インターチェンジをかける少女」の能力で熱海を目指すが、結局沖縄に戻る『南』。脅迫して強制的に「タクシー代出すから家についていこう」とするテレ東の人気番組の取材を中心に、様々な変人が現れる『新宿』計二作品。前回同様、発声法、時事小ネタだらけの台詞回し、支離滅裂で荒唐無稽の中身の無い物語など、一番苦手な団体だが、基本パターンが同じなので少しだけ慣れてきた。この団体の出場時は、男性の笑い声が三割増しになるので、独特の支持客に支えられる個性があるのだろう。
【総評】パーパーがキャッチーで震えた。こんなコントが全く稽古しなくても、突如ポメラが壊れても、ポンポン生み出せる才能が不思議でならない。(モリタユウイチ)


愛と涙と男と女
ベランダ、そこはシェイクスピアの時代から、いくつもの愛が紡がれた舞台。
季節は冬、その男はベランダに2時間、取り残されていました。Tシャツ1枚という真夏の装備で。女が無表情でカギを開けると、男は命拾いしたかのように部屋の中へ。どうやらお仕置きを受けていたようです。聞けば、女に体重が増えたかのような発言をしたのが原因のよう。口は災いのもと。不用意な発言は慎まなければなりません。女が部屋を出た隙に彼女のケータイを盗み見する男。そこで、知らない男とのメールを発見し、思わず笑みが。「今夜は旨い酒が飲めそうだ」
彼女が部屋に戻ると、ここぞとばかりにメールの件を追及。男の逆襲が始まります。自分が受けた仕打ちと比較し、浮気は重罪、ベランダへの放置も何十時間になることやら、分割払いも受け付けると調子づいていたその矢先、疑惑の人物が弟だと判明。自分の勘違いだったと気づいた男は、彼女の容姿をあげつらい、そりゃそうだ、浮気なんかできる訳ないと自分自身を納得させます。そして、いそいそとベランダへ。「8時間コースでお願いします」
お気づきでしょうか?これは紛れもなく、現代の「ロミオとジュリエット」。時を経て、倒錯の階段を登り詰めた男女の愛の物語です。オチの一言からも分かります。過酷な放置プレイを男が決して嫌がっていないことが。
強気な女と弱気な男。その関係性を描いたコントを演じさせたら天下一品の名コンビ、パーパーの本領が遺憾なく発揮された作品です。何と言っても、甲高くビブラートのかかった、震えがちな、ほしのディスコさんの声がいい。これほど気弱さを感じさせる表現力を持つ演者が果たして他にいるでしょうか?そして、ぶっきらぼうで相手の胸に真っ直ぐ鋭利に突き刺さる、あいなぷぅさんの声もいい。華奢なスタイルからは窺い知れない力強さが一声で分かる。これも大きな武器であります。
男は強く、女はか弱く。そんな昭和のジェンダー意識が崩壊した現代だからこそ、パーパーは大衆の共感を集める。そう論ずる人もいるかもしれません。しかし、女性上位を軸とした笑いは今に始まったものでなく、江戸の昔からありました。そう、落語です。「町内の若い衆」「熊の皮」「お見立て」…、男は女に敵わない、そんな噺は挙げればキリがありません。いつの時代も変わらない普遍の真理を巧みに捉え、男女の本質を描いているところにパーパーが支持される理由があります。そして、演劇的には稚拙とも取れるが、コント的には卓越した、誇張のある発声が、男女の胸中を明確にし、笑いを増幅させているのです。(市川幸宏)

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