渋谷コントセンター

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2021年5月28日(金)~5月29日(土)

テアトロコント vol.51 渋谷コントセンター月例公演(2021.5)

主催公演

公演詳細

幻想の否定から見えてくるもの。
近い将来、オリンピック競技に採用されるのではないかとまことしやかに囁かれている競技があります。eスポーツです。遊び感覚で高収入が期待できるプロゲーマーは子供たちにとって憧れの職業。機能性とデザイン性を重視したコスチュームや会場の雰囲気作りも人気の要因となっています。そんなeスポーツの大会を制し、チャンピオンに輝く土岡哲朗さん。歓喜に浸る彼を尻目に破れたぐんぴぃさんが叫びます。「あ~~~~~!」と信じられないぐらいのボリュームで。完全にヤバイ人です。身にまとっているのは競技用コスチュームではなく、スウェットの上下。怠惰な生活習慣を彷彿とさせる、だらしない体型にも悲哀が滲み出ています。そう、これがゲームに熱中するオタクの最大公約数をイメージで切り取った、彼らなりの表現。花形アスリートになるのは東大に合格するより遥かに難しいという当たり前の現実を突きつけ、夢見がちな青少年の淡い期待を木端微塵に打ち砕くのです。
青山学院大学落語研究会で出会った二人が結成した、春とヒコーキ。主にネタ作りを担当しているのは、大学卒業後、三年間ニートだったという土岡さん。狂気が潜んだ独特のコントは、ぐんぴぃさんではなく、見た目シュッとした彼の脳から生み出されていると思うと、曰く言い難い感慨を覚えます。
ボケとツッコミの役割がコントによって異なるのも、春とヒコーキの特徴。土岡さんがボケを演じる作品で、その異様さは際立ちます。
車にはねられ、息絶え絶えのぐんぴぃさん。そこに通りかかった土岡さんは、何気ない天気の会話からコミュニケーションを取り始めます。初めて会う人との対処法がインプットされていて、オートマチックにアウトプットされたのでしょう。目の前の人に命の危機が迫っていることは一目瞭然。にもかかわらず、助けようとする素振りはありません。それどころか、ビニール袋を猫と見間違え、車にはねられた彼の無駄死に無駄が無いとあざ笑い、最後に見る走馬灯を自らの手で演出しようとしたり、単なる興味本位で面白がっているかのような行動に出ます。そんな楽しいひと時ですら「再来週には忘れちゃうんだろうな」と笑い飛ばす土岡さんのおぞましさといったらありません。
ひとかけらの救いもない、屈折した笑い。それは、人間本来に備わっていると思われがちな人間性という名の幻想の否定。この世は悪意に満ちている。そう思って世界を見ると、今まで気づかなかった本質が見えてくるのかもしれません。(市川幸宏)

ガクヅケと音楽
おそらくそこに込められている主題は深刻なものであるはずなのに、どうしてか聞くと笑わずにはいられなくなる曲がある。例えばエリック・サティの『ジムノペティ』。これはラーメンズだかスネークマンショーだかの作品で使われていたと思う。記憶は曖昧だがとにかく、どうしても『ジムノペティ』を聞くとどうしても顔がにやけてしまう。真面目に作られた曲に入り込もうとすると、邪悪な何かが私を笑かそうとして私を失礼な鑑賞者にしようとする。いや、その「邪悪な何か」は私自身の中にあるのだろう。とにかく何かを笑いの対象として捉えたい邪悪な好奇心。これはただの一鑑賞者である私が実感したものであるが、おそらく一流の芸人やコント師はその「邪悪な何か」が大きなものとして備わっているのだと思う。
ガクヅケの3つのコントはどれも音、音楽が効果的に使われているものであった。1本目の『爺』は道路の真ん中で子供がソーラン節を踊り、車の走行を止めてしまうというもの。ソーラン節の音に負けまいと発せられる木田のツッコミには笑わずにはいられなかった。2本目の『婆』は子供がお婆さんを山に捨ててしまうが、どうしても子供が山から帰るのにおばあさんが付いてきてしまうというもの。山と自宅とを子供とお婆さんが往復し続けるのだが、それが次第に体力テストのシャトルランのようになり、学校の体育館で聞いたことのある「ドレミファソラシド」が流れ始める。音に間に合わなければコントの成立自体が危うくなってしまうのだが、それだけに観客は目を離せなくなる。自らの体力を犠牲に観客の目を惹きつける力技は、二度と同じように見せることのできないものであり、強く印象に残った。最後の『NO』は、寿司屋で彼女に振られてしまった男が、彼女を追いかけずにテーブルの寿司を食べようとしてそれを隣の客に突っ込まれるというもの。このように書くと平凡なコントのように思われてしまうが、一連の動きがチャゲ&飛鳥の「SAY YES」に合わせてスローモーションで行われる。動きと音のミスマッチによるバカバカしさに吹き出してしまうのだが、よくよく考えると「SAY YES」はそれだけでもちょっと笑ってしまいそうな曲かもしれない。
これら3つのコントを振り返ると、驚くような展開が仕掛けられている物をなかったと思われる。展開など気にせず自分たちの面白いと思ったものをとにかく形にしたもの。ガクヅケのコントはそんな印象を受けるものだった。技巧よりかは発想勝負の力技。これは長く続けることのできるものかと少し不安になるが、いや、大丈夫だろう。家にいても外にいても何かしらの音楽が流れている。それがたとえ真面目なものであったとしても、「邪悪な何か」を持つ者にとっては笑いの対象になる。ソーラン節もシャトルランの音も「SAY YES」も笑いに変えてしまう邪悪なコント師ガクヅケは、街に音楽が流れる限り、きっとコントを作り続ける。(永田)

演劇側の方が強いと毎回思ってしまうことについて
毎回『テアトロコント』に来ると、お笑いよりも演劇を楽しみにしている自分がいる。基本的には笑うためにこのイベントに来ているのだが、同時に「笑い」というダイレクトな反応だけを楽しみたいなら別のお笑いライブに行けばいい話で、やはりこのイベントはそういったものとは質が違う。どういった手法や手段で笑いを生んでいるのか、まだ見たことがない類の笑いを見に行くつもりでいる。もっというと、「笑い」という初期段階を超えてその奥にある、例えば「怖い」という感情や、ネタのシステムや演者の器量に圧倒されて「すげぇ…」と思えたときが非常に楽しい。以前だとナカゴーや城山羊の会に笑いと恐怖と感動とで感情がぐちゃぐちゃにされたことがある。トラウマ的に記憶に焼き付いて離れないような観劇体験ができたら、これほど素晴らしいことはない。それでいうと、お笑い側は賞レースに合わせた尺のネタになってしまうことがほとんどで、だいたい5分前後のネタが4~5本、それを面白い顔の人が大きいリアクションで磨かれたワードセンスで展開していくものになりがちになる。ネタの構造は面白そうだったりするものが、大きいリアクションや声というものに上書きされてしまう印象になる。以前出演されたチョップリンが、ストレートすぎるぐらいのシステムとキャラクターセンスのコントを行っていた(「ひぃじいちゃん」というコントだった)が、それがあまりにも抜群すぎて腹がよじれるぐらい笑ったこともあった。そういう経験をしてしまった以上、キャラクターを軸にしたコントが更新されていくのは難しい。従来のものとは別の切り口のネタが芸人側からは見たい。
それゆえに、演劇側が笑いを生み出すシステムは毎回新鮮に思える。コンプソンズ『シン・チャーリーズエンジェル』は、チャーリーズエンジェルたちが悪党の抱く野望を阻止する壮大なミッションを行う30分だが、手作り感溢れる小道具たち、客に想像させるため口頭で演出を説明する様、最後の最後でしか音響や照明を使用しない感じなど、映画とはかけ離れたチープさのギャップが面白い。話のなかで『シンエヴァ』や『花束みたいな恋をした』のパロディ、ダイヤモンド・プリンセス・プリンセス号やIOCバッハ会長や武漢肺炎などのネトウヨワードなど、近年の時事ネタもたっぷり入れ込んであるが、陰湿さはなくむしろ役者の明るさや内容の馬鹿馬鹿しさからカラッとした印象で、不思議とほっこりした気分で観終えた。(倉岡慎吾)

セリフの春ヒコ、構図のはなしょー
【春とヒコーキ】
 コント毎に奇人役と常人役、いわゆるボケツッコミが交互に入れ替わる構成でネタが組まれており、またそのどれもが逆ではなんだかしっくりこない絶妙な配役で、身勝手にも思わず4本のネタを1つの作品として捉えたくなるような演目だった。
春とヒコーキといえば、コンビ紹介文にもあった通り鋭いワードセンスが注目されるが、今回の演目では『死にそうな人』というコントでのセリフが見事だった。たった今車に轢かれて動けなくなっているぐんぴぃに対し、土岡はサイコパスさながら、助けるそぶりも見せずその状況の希有さに興奮状態になるこのコント。助けを求められているにもかかわらず、好奇心だけに支配された土岡は「死にそうな人を前にしてやってみたかったこと」をどんどん実行していくのだが、いきなりしりとりを仕掛けられて困惑するぐんぴぃを前に「これから死ぬ人のボキャブラリー、見たかったのに…」と拗ねたようすで放ったセリフが思いがけない共感(?)を生み、最高に面白かった。言われてみれば、これから死ぬ人のボキャブラリーは絶対に気になる。他にも、ぐんぴぃが車に轢かれるに至ったその経緯を聞いた際の、「無駄死にということにおいて、一切の無駄がない!」というセリフもたまらなかったし、特筆したい部分だらけなのだが、1番心を掴まれたのはコント終盤、散々やりつくした土岡が達成感のため息とともに発する「あー、こんなに楽しいのに再来週には忘れてるんだろうな」というセリフ。夢オチと同じくらい悪質はであるが、こんなのありえない!と思わず引いてしまいそうな無茶苦茶な展開を一気に身近に引き寄せる完璧な一言だった。サイコパスだって、楽しかったこと再来週には忘れちゃうんだな。芸能人の案外庶民的な一面を見たときと同じだ。土岡の印象深いワードとぐんぴぃの強烈なキャラ、どちらにも嫌味がないのが、ありえない展開を観客の中で現実にさせてしまう所以なのではないだろうか。
【はなしょー】
 はなしょーは、計算しているのかいないのかわからないが、総じて構図が美しくて笑ってしまった。1本目の『言って』は、しょうこがはなの新しい彼氏について何か重大な秘密を抱えている素振りを見せるが、言い渋ったままでなかなか言い出さない、そんな2人の押し問答を切り取ったコントである。しょうこが何か言いたげなようすを見せては「やっぱり言えないよ…」と引き返し続けるなか、しびれを切らしたはなが沈黙を破り「え、なに?」と床から立ち上がりかけるのだが、そのときの足の角度が三角定規を当てたくなるほど直角で、なんでこんなに画が美しいんだよ、と笑えてきた。しょうこの部屋を模した舞台でイスに座りクッションを抱えるしょうこ、そしてその目線の先で床から体操選手の如く立ち上がりかけポーズで停止するはな。コントをイラストに起こすか、今回のテアトロコントのサムネイルを決めるなら絶対にはなしょーだと思った。
 孤独が限界突破したOLしょうこが、とにかく人をおびき寄せるためにつくった空き巣ホイホイハウスに、まんまと空き巣に扮するはなが捕まるコント、『人のいる家』。ここでも同じく、事態を察知して逃げようとするはなを、武闘を習っていたというしょうこが押さえつけるシーンがあるのだが、その構図があまりに綺麗で、文章では伝わりにくいのがもったいない。舞台の中心で取っ組みあう2人は、押せども押せども位置が動かないままでセリフの言い合いが続き、またも、なんでこんなに画が美しいんだよと笑えた。どう見えるか計算して動きを考えているのならそのプロ意識に感嘆してしまうし、考えていなくてあの構図になるのだとしたらその才能に感心してしまう。はなしょーを見るなら、断然“引き”である。(suama)

自然な展開に引き込まれる男性ブランコ
男性ブランコは、神経質そうに見える痩身の平井と、常識人かつ温厚そうな見た目を持つ浦井のコンビ。両者似たような黒メガネをかけていて、まさに日本の30代成人男性の平均像といった風貌である。あまり特徴的な容姿ではなく、幕間に顔を見ても芸人とは一見気付けないかもしれない。しかし、一たびコントに入ると、二人は淡々とシュールな雰囲気を醸し出し続けていた。普遍的な設定を巧みに展開させ、人物像に深みを持たせており、繊細さと丁寧さがあった。単発のアイデア一辺倒で押し通すような、音ネタや、キャラクターコントといった、強引な笑いとは対極にあり、軽妙洒脱なセンスに好感を持った。彼らは【袋】、【マウンテン】、【水】と題する3本のコントを上演した。

【袋】は、持ちきれない大量の袋菓子を抱えた男性(平井)が、歩きながらぽろぽろとお菓子を落としてしまう。すれ違った男性(浦井)がお菓子を拾う作業を手伝うと、平井は、「レジ袋をケチった男の末路です」と発言し、ネガティブ、偏見に満ちたやり取りを一方的に繰り出す。平井の奇妙な言動に困惑しながらも、浦井は、辛抱強く付き合う。平井は、思想が強く、自虐的だが、見ていて決して嫌な気持ちにならないのは、「大量の袋菓子を抱えて身動きが取れない人」という、身近にいそうな、愛されキャラの特性も持ち合わせているからである。

【マウンテン】は、山登りをしている男性2人が、山頂にいく為にロープウェイに乗ろうとする。その間の、数分の待ち時間で起きるやり取りである。平井は、今までロープウェイに乗った回数を質問し、浦井が回数を答えただけで、「マウントを取られた。マウンテンだけに」と不機嫌になる。会話を進めていく段階で、なぜ平井がロープウェイに乗る直前にいきなり不機嫌になったかが明らかになる。「なぜ山登りに、男性2人で行ったのだろう」という、かすかな疑問が中盤に氷解する展開の妙に思わず唸った。

【水】は、就職を控えた大学生(浦井)相手に講演する社長(平井)の話である。このコントは出色の出来であり、会場は笑いの渦に包まれていた。講演者は滑舌が悪く、いかにも胡散臭いのであるが、「例えるだけ」で教訓や意味を示してくれない。「軍手が落ちていたら」、「サラダバーは好きか」など興味をそそる出だしから、聴衆を当惑させて話が終わる。いかにも講演会でありそうなテクニックを披露し続ける平井と、趣旨が分からない話を聞かされ困惑する浦井の構図は、ずっとシュールかつ可笑しみに満ちた雰囲気を提供しており、安心して観ていられた。(あらっぺ)

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