2016年5月27日(金)~5月28日(土)
テアトロコント vol.7 渋谷コントセンター月例公演(2016.5)
主催公演
公演詳細
全員が異なる武器を携えて
全員が異なる武器を携えて勝負に臨んでいるように思えた回だった。いや、これまでのテアトロコントも出演者の意識としてはそうだったのかも知れないが、今回はいい意味で全体を貫く軸、統一感はあまりなかったようにみえた。それぞれが伸び伸びとこれまで地道に磨いてきた武器を披露していた。演劇とコントのクロスオーバー、ということを観ていて意識することがここまでないのも珍しかった。ただただ違う面白さの4組を連続で体験した、という充実感だけが残っている。
1組目のAマッソは、どのコントも十分に笑えたけれど、何よりも「鬱vsファンキーモンキーベイビーズ」という映像作品が衝撃的だった。鬱の反対語は何か? ファンキーモンキーベイビーズではないか? という思いつきを実際に検証するため、長い間鬱状態にある実のおばの家に突撃訪問し、ファンキーモンキーベイビーズの歌詞の一部をさり気なく会話中に織り交ぜ、鬱状態を取り除けるように尽力するというフェイクドキュメンタリーに近い作品。おばがディープな墓の話を始めたあたりから完全に惨敗ムードになるところまで含めて、どこまでが台本通りでどこまでが現場で起きたことなのか、思わず知りたくなる完成度の高さ。破壊的なまでの爆笑が場内で起きていた。
2組目のほりぶんは、釣ったばかりの鰻の取り合いだけでよくここまで時間を持たせることが出来るなあ、と感心した。単純な内容を徐々にセリフを変えながら繰り返す、その技術がほりぶんは旗揚げ公演から既に完成されていたので、安定のクオリティではあるのだが、全然違う方法を駆使するほりぶんも個人的には観てみたい。今年の公演はこの作品のみということなので、首を長くして来年の公演を待ちたいと思う。
3組目のワワフラミンゴは、唯一爆笑をかっさらうタイプではなく、地味なくすくす笑いを絶えず巻き起こす作風なので、逆に印象に残った観客も多かったのではないだろうか。イカが高速でぐるぐる回っている映像を二人羽織で何とか説明しようとする、全く意図の汲み取れない不思議なシーンが、なんだかんだでいちばんツボにハマったかもしれない。
4組目のジグザグジギーはすべてのコントで設定の巧みさが際立っていた。試着するたびに白いTシャツが目に見えて黄ばんでいき、完全にイエローのTシャツにしてしまう特異体質の男。異常なまでの猫舌で、ラーメンが完全に冷めるまで食べるのを待つ評論家失格のグルメ評論家。あらかじめテニスボールがどこに飛んでくるかを予測し、試合結果が出る前にキャッチして選手をイラつかせる神がかったボールボーイ。どの登場人物も、段々とリアリティを失効し、現実から遠く離れた存在になっていく。その段階の踏み方の丁寧さに圧倒的な脚本の力を感じた。(綾門優季)
ディスコミュニケーションとそれぞれの解決策、その結末
突然、どうも話の要領を得ない、しかもやたらと個性的な人物への対応を迫られることになる、Aマッソのコント二作品。あまりにも会話の通じない相手に遭遇したとき、彼女はもはや、ツッコミもそこそこに笑うしかない。あるいは、舞台上の状況から離脱し、コイツやばいですよとでもいうように我々観客と顔を見合わせる。ツッコミ以前に意味わからなすぎて閉口、というその反応こそは、まさに、眼前に唐突な不条理を突きつけられている、我々観客側の心境とシンクロしているように思われる。そのようにして、初めのうちは客席側のもどかしさを代弁するように振る舞う彼女であるが、さながら相手のおかしさが伝染していくかのごとく、徐々に常識の側から外れていく。『塾の来客』では、最終的に、思わず「いや、そこかよ!」というような、予想の斜め上を行く、常軌を逸したオチが、他でもない彼女の手によってかまされることになる。見事な突き放し方である。気付けば、世界の条理の外側にいるのは、我々観客の方…一体、いつの間に?残されたのは、もはや呆気にとられお手上げというあてどない笑いと、ある意味で心地の良い、宙吊り感的余韻である。
こうしたオチの読めない展開というのは、そもそもそれだけで物語的魅力を持っているが、ほりぶんに関しては、既に当日パンフレットに話の流れそのものが記載されていたにもかかわらず、まさかの展開に唖然としてしまう。恐らく、衝撃は二重の意味においてであろう。まず、役者そっくり(でもないな…)の人形を当然のように彼女の幽体として扱う演出の奇抜さ、そしてより重要なのが、その不気味な人形との、成立する気配ゼロの対話が延々と続く地獄絵図に対してである。終わりの見えないディスコミュニケーションへの絶望と、そこに生まれる「成す術のなさ」への、どこか哀愁にも似た同情…観客はこの両面を、同時に味わうことになる。あらゆる要素が我先にと言わんばかりに押し寄せ、観客は一種のカオスのうちに飲み込まれることになるが、一度その中に身を任せてしまえば、果たして、こんなにも言葉の不要な面白さというものがあるだろうか。
問題はそのような暴走が、すんなりと笑いに変換されうるか否かであり、ワワフラミンゴの演目はその点で興味深い。か細い声の女性たちよって、ほとんど脈絡のない、断片を継ぎはぎにしたかのような会話が続いていく。これが当たり前といったような顔で進められるその光景は、なにか、不条理をもたらす第三者的な力が、彼女たちを、さながら操り人形のように動かしているのでは、とでも思わせるものである。こうした展開に、観客たちは、徐々に困惑を覚え始めるであろう。…どこで笑うべきなのかわからない…。というのも、このコントでは他の演目のように、いわゆる笑い所が、随所で明示されるわけではないからである。むしろその不可解な会話の様子そのものをネタとして提示しており、そのために観客は、いわば笑う・休む・笑うという既存の呼吸法を失い、完全に置いてきぼりをくらうことになる。時折、例えば二人羽織をし始めるあたりなど、明らかに狙ってボケている箇所を拾うことができるのだが、そういう場所では、観客は待っていましたとばかりにすかさず笑う。もはや、笑いは出演者たちによって提供されるのではなく、観客の側から搾取していくものになり替わっており、我々はなんとかネタに追いつこうとして、その不可解な一挙一動を注視するほかない。しかしこちらがいくら頑張っても、彼女たちは何故か常に数歩先にいるのである。
図らずもワワフラに息を切らしたところで、ジグザグジギーが安定的に、平易かつ洗練された面白さを供給してくれる。3つの演目の構造はどれも、圧倒的に理不尽な状況の中に置かれた人物が、徐々にその中での「やり方」を掴み、逆にそのシステムを利用していこうとするという、非常に理に適ったある意味で爽快なものである。仕組みを徐々に解明していくその流れ、また連鎖して引き起こる微妙に舵の効かない展開は、完成度が高く、見ているこちら側に客観的な納得と共感を抱かせ得る。しかしながら、そうして丁寧に積み上げられていった過程と、途端に訪れた突飛なオチとの間には、有機的な繋がりがないように感じられた。それまでの緻密な流れが、少々投げやりとも思われるようなオチで急に絶たれ、やや粗雑な印象を受けたのである。コントにしても演劇にしても、決められた尺の長さといかに折り合いをつけていくかは、ひとつの命題であろうが、そこで重要になる、オチのつけ方というものこそ、この2つのジャンルを比較するカギになるように思われる。ほりぶんの、その後にある時間を予感させるような神妙な終わり方と、ジグザグジギーの軽やかで潔い強制終了を見比べてみたい。現実的な尺を守りつつ、いかようにして内容を上手く収束させるか。ここで目指される方向性において、コントと演劇はどうやら興味深い差異を見せているのである。(アサクライコイ)