2016年7月29日(金)~7月30日(土)
テアトロコント vol.9 渋谷コントセンター月例公演(2016.7)
主催公演
公演詳細
コントに謎は必要だろうか?
1番目はだーりんず。四つのコントのうち、何よりも昔捨てた五つ子が父親に会いに来る作品の完成度が高い。順番が前後するだけで、父親の子供に対する扱いが違う。いくら人生にとって大切な場面とはいえ、何度も繰り返しているうちに段々と扱いが雑になる。自分も誰かとの一生に一度の出会いで、知らず知らずのうちにこのような不運に見舞われているのかもしれない。
2番目はトリコロールケーキ。コントにあるまじき、相当ややこしい構造を備えた作品。「チカラ」を持った訪問者が、忌まわしい呪い(?)を次々に解いていくのだが、それを見破るヒントは、他の登場人物のセリフの端々に隠されている。常に集中していないと筋を正確に追うことが出来ず、笑うことよりもセリフを聞き逃さないことに意識を持っていかれてしまった観客も多かったのか、休憩中は狐につままれたような空気が客席に漂っていた。
3番目は東葛スポーツ。『スティーブ・ジョブズ』というタイトルの通り、同名の映画のストーリーを踏襲しつつ、時事的なネタをふんだんに詰め込んだクリティカルな作品。都知事選の前日ということもあって、舛添要一の人形が爆弾発言を繰り返す後半になってからは少し観客の笑いの質が変わっていた。激怒と恐怖のないまぜになったような感情に襲われながら、それでも笑うしかなかった。
4番目はゾフィー。ユーロライブで「弱い人たち」によるコントを何度か拝見していたけれども、ゾフィーのみでのコントを観るのは今回が初。予想していたよりもあっさりとしているというか、グズグズ感のあまりない、掴みやすいコント。報道番組でわかりにくい例えを用いているうちに、いつのまにか違う話にすり替わっているという作品が、よく練られていて楽しく観ることが出来た。
ところでコントに謎は必要だろうか?率直に言って、今回のテアトロコントで最も笑えず、意味がわからなかったのはトリコロールケーキだった。だが、個人的に最も印象深かったのもトリコロールケーキだった。コントに笑いではない、いったい何を求めているのだろうか?あるいはそれはコントの正しい見方ではないのかもしれない。少なくとも瞬発的な笑いはトリコロールケーキの『チカラ』という作品には全くと言ってもいいほど含まれていなかった、だからこそ、なのかもしれない。劇場にわざわざ足を運ぶ理由のひとつに「テレビでは絶対に出会えないタイプのものが観たい」ということを挙げるひとも多い。いまでもトリコロールケーキの謎について考え続けている、30分かけてまんまと術中にはまってしまったのだ。30分かけないと不可能な呪い(?)があることを知った体験だった。(綾門優季)
研ぎ澄まされた”ナンセンス”トリコロールケーキがテアトロコントの起こした波及
今回は、芸人からはだーりんず、ゾフィー。劇団からはトリコロールケーキ、東葛スポーツ。劇団陣営が、テアトロコントの常連といってもいいメンツだ。東葛スポーツは、コンスタントに新作を下ろしているしトリコロールケーキは3度目の登板。劇団陣営からは、慣れた場所になっているのかも。
東葛スポーツは、映画『スティーヴ・ジョブズ』から着想を得たという作品。いつもの映像と演者のスタイルだが、壇上に役者は不在。代わりに川崎麻里子(ナカゴー)と古関昇吾が操るパペットが物語の案内役に。今回は、舛添前都知事の辞任による都知事選の真っ最中ということもあって、根幹に政治や社会に対する怒りがある東葛スポーツらしい舞台だった。
ゾフィー。上田航平は、ラブレターズ塚本、ハイパーポテンシャルズ聡、玉田企画玉田とともに、「弱い人たち」という合同ユニットを組んでおりここユーロライブでは馴染みのある顔だ。ゾフィーの世界観は、設定の妙だと思う。一発目の『刑事の理想的な殉職』では、相棒が撃たれたことを無視して、自分がいかに刑事たるかをしきりに気にする刑事が出てくる。『ペンション殺人事件』では、殺人事件が起こったペンションの親父が怒りをぶち撒けている。たしかに、ドラマでなんで殺人事件が起きた現場の持ち主は怒らないんだろう?この設定をみた時、頭の中の電灯が光った感じがした。
トリコロールケーキ『チカラ』。トリコロールケーキが目指すナンセンス、そして今まで培ったそれをギリギリまで削ぎ落として、鋭くしたような舞台だった。”カバ”という言葉に反応する謎の占い師と、そのシェアメイト。展開がシステム化しているので、単調なものが続いてしまう。その結果、どう咀嚼すればいいか悩んだ。しかし、あくまで”ナンセンス”なので、それでいいのかもしれない。テアトロコントに入場するときに「笑い」を僕たちは求めすぎてるんじゃないだろうか?
テアトロコントが見つめるのは、あくまで「新たなジャンルの創出」とある。トリコロールケーキは、もしかしたら一石を投じたのかもしれない。(早川さとし)
テアトロコントこそがみんなが待っていたファミリーコンピュータ
【1】だーりんず『四つの家族とひとつのコント』。
最初にアナウンスがあるように4組の「見た目は似ているが別の家族」が描かれるが、男性コンビが演じるという条件下でシンプルな父子関係が丁寧に避けられ、関係性に重複がないように整理されている(父と「娘の元夫」「義理の息子」「娘(元息子)」「実の息子5人」)。内容においても「長女→次女(→三女)と離婚・結婚を繰り返す」や「5つ子が順番に復讐に来る」など形式性が目立つ。編集的な天丼としてのリフレインではなく「反復かつ連続」した時間の流れを意識的に持ち込んでいる。続く刑事コントでも引き続き死亡フラグなどの定石をきちんと置いた上で形式主義的な「ずれの実践(蓮實重彥)」を重ねている。
【2】トリコロールケーキ『チカラ』。
本来目立つべき存在でない「マクガフィン(おのれが意味するものの取り消しを求めるシニフィアン)」を徹底的に中心に据えたバカミス。「死んだカバ」という明示的な言葉を誰も考慮に入れず、劇中内での「名探偵=もっとも鋭敏な読者(渡部直己)」の「この家はカバが死んだことがあります」の発言から無駄な伏線回収イデオロギーが発動され、しまいには最初から了解済みなことをわざわざ「発想の転換」と言い出す。最後のそのまま過ぎる名前オチによってミステリにおける「燻製のニシン」を使うつもりが毛頭ないという発想の転換の態度表明が行われた。粗忽長屋みたいだった。
【3】東葛スポーツ『スティーブ・ジョブズ』。
それ自体に非常に強い批評的あざとさがある(「ステラおばさんのクッキー」という言葉を入れる、CCCコミッティ:いとうせいこうの映像を入れる、人形劇中にマペットの説明を入れるなど)。「ファミコンの登場で、アーケード由来とPC由来のゲームがテレビゲーム機上に続々と集結してきた(中川大地)」ように演劇を多メディアがエミュレーションできる「蕎麦屋のざる」として使い、「ざるに載せる蕎麦」をスポーツ新聞みたいな時事ネタの見事なコラージュ・モンタージュで構成するその手法が古く見えるのならそれは「枯れた技術の水平思考(横井軍平)」としてむしろ好ましい。
【4】ゾフィー『刑事の理想的な殉職』他3作品。
順番の関係上、刑事ネタとミステリネタが重なったが「ベタな設定をネタの切り口で新しいものにする(バイきんぐ・小峠)」という命題を達成していたのが魅力的だった。「ファシリテーションに必要とされる能力は、見立て、置き換え、比喩を使って、わかりやすく伝える力(三木健)」という全てをきれいに無視した討論番組コント『日本の明日を考える』は、「ホモサピエンス・サピエンスは異なった階層にあるものをループでつないでしまう「喩」というものをつくり出しました(中沢新一)」という人類がせっかく手に入れた「比喩」を類人猿の「サルとゴリラ」で例えていく事で円環させたのは見事だった。(小高大幸)