渋谷コントセンター

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2017年10月27日(金)~10月28日(土)

テアトロコント vol.23 渋谷コントセンター月例公演(2017.10)

主催公演

公演詳細

市民プールは残しまくる
コントの「役割」は何より人を笑わせることである。笑いの為の設定、笑いの為の演技、笑いの為の物語で観客を笑わせる。20年ほど前のシティボーイズの公演、カーテンコールで大竹まことは「(コントが終わった後)何も残さない!」と自身の美学を語った。
では市民プールはどうか?何度も笑ったし、時間の短さと笑いの手数は「コント」のそれと言える。ほぼ全ての台詞が笑いに繋がる。ただ、「残りまくる」のである。
『東中野の恋人たち』は四つの短編で構成される。四組の男女が、傍から見れば些細な、当人にとっては重大なそれぞれの問題について話し合う。
一本目『普通の人々』では、男の元に昔の交際相手から結婚式の招待状が届く。「普通は行かない」という理由で断ろうとする男に、「普通って言葉が一番嫌い」と女は反対する。「可能なら(結婚式に)一緒に行きたい」と言い、男が破った招待状を懐から出したセロテープで(いつから抱えてたんだろう?)無言で修繕する。構造的には女が「ボケ」で男が「ツッコミ」であるが、女が異常だとか奇妙だとは全然思えない。むしろ、とてつもなく真摯である。それを男も分かっていて、女の意見の飲み込みづらさを、飲み込みづらいまま愛す。愛とはそういうものだ、と思いたい。
二本目『名前なんていらない』では、女が浮気を告白する。男が問い詰めると、女は浮気相手の名前も知らないという。更に問い詰めると、「浮気」とは昼間の公園で、男子高校生と、同じタイミングで別の本を読み終えただけだという。読み終えるさまを再現する「パタン、って」という表現が強烈だ。「パタン」で終わったのは読書なのか恋なのか。その音が二つ重なるとき、「浮気した」と思えるほど心が揺れたのは共感できる。たとえ男子高校生が読んでいたのが『リアル鬼ごっこ』だったとしてもだ。「浮気」相手の趣味に憤る男の気持ちは痛いほどわかるが、愛は趣味など飛び越える。たぶんそういうものだ。
三本目『リリー・フランキーに声が似ている』では、女が男に別れ話を仕掛ける。途中から照明が落ち、「なぜ俺と付き合ったのか」と問う男の声に観客が集中する時間があり、題名の意味がわかる。誰かを好きになる理由なんてそういうものなのかもしれない。ブリッジのような短い話だったが、本当に丁度よく声が似ていて、その丁度よさに笑ってしまった。
四本目『息を吐くように』は、男が女に別れ話を仕掛ける。男は本当はタヌキであるが、人間だとウソをついている。単に飽きたから別れたいのに、浮気をしたとウソをつき、その告白をすることで別れようとする。あらゆるウソがバレても許そうとする女に対し、男はそれでも別れ話を進める。女の「そんなに私と別れたいんだね」という言葉に胸がかきむしられる。男が非道に見えるがそうではない。愛は冷める。恋は終わる。そういうものだ。ラスト、女が自分のウソを告白するシーンで思わず泣きそうになってしまい、このコントの笑いどころを全て忘れた。
役者の演技も本当に素晴らしく、実在していると思うほどリアル。四本目で7Aが演じる「あーちゃん」に対しては、リアルさの余り恋愛感情すら抱いた。終演後「あーちゃん」に二度と会えないと思うと失恋に近い喪失感があった。東中野を探し回っても彼女は見つからないのだ。
シティボーイズのコントと違い、市民プールのそれは残りまくる。失恋の喪失感すら残る。たくさん笑ってスッキリする快楽とは遠いが、この「残ったもの」は、大袈裟に言えば恋の、人生の、この世の美しさの結晶なのかもしれない。全ては儚く、絶対に終わる。その事実に絶望せず、「そういうものだ」とそっと抱きしめるようなコントを観せてくれた市民プール。幕が下り、私はそっと抱きしめるような拍手を送った。(森信太郎)


ネタとネタのつなぎ目が(たくさん)見れるのはテアトロコントだけ
Aマッソ「コント「美術館」」。雪印メグミルク「6P(ロッピー)チーズ」の絵が飾られた私設美術館での話。アンディ・ウォーホルが選んだキャンベル・スープ缶、澤田知子が選んだハインツ社トマトケチャップとマスタードボトル、Aマッソが選んだ6Pチーズ、それらは大量生産品のイコンです。ただスープ缶とボトルがそれ単体で製品として流通できるのに対し、6Pチーズという名前由来を削がれた1P状態で描かれた絵画は、大量生産品の中でも更に分割された印象を抱かせて、描かれなかった5Pの存在を想像させます。さらにより1Pさを強調するように「寄り」、さらにはポップ・アートで問題とされた「表面」(「アンディー・ウォーホルのすべてについて知りたければ表面だけを見ればいい。」という忠告さえガン無視し、)の包装を剥いでチーズの剝き身さえ見せてしまいます。スカシとして登場したミレーの「落穂拾い」は多分山梨県立美術館で見れます、なのでそれはまあ見れるとして6Pチーズの1Pの絵が見れるのはAマッソのコントの中でだけ幻出する「6Pチーズ美術館」のみです。しかしそれも閉館。非常に残念です。
努力クラブ「幸福を呼ぶ幸せの石~ラッキーストーン~」。ナイフを持った女が舞台左端にいて、ゆっくり舞台右端の男に近づいて行く。男の前まで行くと刺す。刺したら方向転換し、またゆっくり左端に戻る。戻りきるとまた方向転換しナイフを構える。また舞台右端の男に近づいて行く。男の前まで行くとまた刺す。これを繰り返す。女の動きが思い出せないけど絶対やったことあるレトロゲームみたいで、くるぞくるぞ、ああ刺した、戻ってくぞ、あ!ナイフ構えた、まだ時間あるぞ、だんだん近づいてる、くるぞくるぞ、の繰り返し。なぜか不思議と見てられる。動画再生サイトの「動画の進行状況バー」に近い機能も果たしていて、定期的に刺すことであと何セットかで終わるんだろうなと予感させる。バンビーノなどが得意な短時間でシステムを把握させてそのゲーム的な気持ち良さで笑いにつなげていくパターンのもっと贅沢な時間のゆったりな使い方で、結果笑いも伸び伸びでミニマルになってはいた。
市民プール「リリー・フランキーに声が似ている」。テアトロコントで(もしかしたら他でもあまり)見た事なかったタイプのコントだった。「照明暗くしてください」と照明さんにお願いをする(その時「誰と話してるの?」というお約束も隣でやる)。次のコントの説明とネタバレをする。転換のキッカケ出しをする(わざと失敗して明転してもそのままいる)。ダメ出しをしながらはけていく。リリー・フランキーに声が似ている事はもちろん面白く(アフタートークとかでよくよく見ると骨格も似ている気がした)、でもそっちに目がいかないくらいにフレンドリーにメタ階層に触れていく感覚が新鮮でした。コントとコントのつなぎはテアトロコント毎組試行錯誤があって、映像・音楽・生着替え・シームレスな長編コントにするとか色々あったんですが、人数を贅沢に使える演劇サイドだから行えるニュルッとした入れ替え方に驚きました。それをあざとさと取る人もいるかもしれないですが可愛らしさで見事ごまかされました。
ライス「入れ替わり」。田所と関町がぶつかり、入れ替わったら、田所と田所になっている。関町はどこに行ったのか。「気になる」「5万」「我慢」今回の全てのネタでライスが行った試みは現代演劇・現代小説が取り組んでいる課題と完全に同質である。ポスト・チェルフィッチュ、保坂和志スクール以後の状況の中では人称時空間は平気で移動する。そのスピードはジエン社、坂口恭平で現状の閾値まではきている。お笑いでそのスピードの複雑化・複層化に耐えうるコントを発表しているのはやはり「昨年のキングオブコントで優勝した実力」者、ライスである。今や関町は時空間に偏在し、モナドの領域に到達した。(ネタパレでマロンマロン(おばたのお兄さん・土佐兄弟の土佐有輝)が神木隆之介の為にやったネタで「君の名は。」のパロディーとして小栗旬と小栗旬が入れ替わっても結局変わらないというのがあったけど「空(から)」を見つけ出さない限り「昨年のキングオブコントで優勝した実力を思う存分披露」したライスには及ばない、でもそもそも小栗旬じゃないところに複雑化の可能性がある)(小高大幸)

普通っぽい二人の、普通じゃないやりとり。
都会の片隅で生きる男と女。ふとした出会いで付き合って、自然のままに愛し合い、ふとしたことがきっかけで、二人の間に溝が生まれる。どこにでもある恋愛模様。こうした、ごく普通の人間の営みをいかに描くかが映画であるとするならば、いかに普通に描かないかがコントなのかもしれません。
市民プールの旗揚げ公演となったオムニバスコント「東中野の恋人たち」。登場するカップルは一見、どこにでもいそうな恋人たち。でも、会話を聞けば、すぐに普通でないことに気づきます。二人はとんだカップルだって。勿論、東中野にも、こんなカップルはいないでしょう。
例えば、行こうか行くまいか迷っている男性。元カノから届いた結婚披露宴の招待状に頭を抱え、「普通どうする?行かないよね?」と彼女に尋ねる。彼女は答える。「元彼いないから分からない」。ざわざわとした沈黙。「えっ、普通いるよね?」という男性は、普通を重視する普通の男。行った方がいいのか、行かない方がいいのか、彼女が望むようにしたいと言うと「一緒に行きたい」。そう、彼女は、普通なんて歯牙にもかけない、己の心に真っ直ぐなタイプ。普通の男は、ひるむのが普通。
例えば、彼女の浮気を問い詰める男性。相手の年齢が「17歳」だと聞いてうなだれ、名前を訊くと「知らない」と言われ愕然とする、普通の男。彼女は「積極的に目をつぶってほしい」と恋に盲目な乙女そのもの。ところが、よくよく聞けば、二人は昼間、公園のベンチに腰を掛け、二人で別々の本を読み、同じタイミングで読み終わるという、ただそれだけの関係。同時にパタッと本を閉じるその瞬間を思い出し、恍惚の表情を浮かべる彼女。「別れましょう」と男に切り出す。「いやいや、なんで?」と至極普通のリアクションをする普通の男。
コントにありがちな「あるある」ではなく、恐らく絶対にないであろうやりとりを違和感なく楽しむことができるのは、誇張のない、自然体の演技がなせる業。日本映画界を担う名匠、今泉力哉監督が脚本・演出を手掛けたと聞けば、納得する映画ファンも決して少なくないでしょう。コントファンとしては、市民プールの次回公演に期待が高まる一方、映画ファンとしては、今泉監督に同じテイストの静かなコメディを撮ってほしいと期待してしまうのが、ごく普通のファン心理。
それにしても、愛する人との関係性を危ぶむあまり、あれやこれやと考えすぎてしまうのは、体にとって毒なだけ。そう言えば、落語の「厩火事」もそんな噺。でも、ついつい気にかけてしまうのが、普通の人間なんですね。(市川幸宏)

とある男女の会話
渋谷の喫茶店。男と女が話をしている。
男「あのさ、今日観てる間ずっと気になってたんだけどさ。Aマッソってどういう意味なんだろうね」女「あーね」男「でもネタ面白いよね。なんか訳わからなくて。漫才を口パクでやる映像は笑ったなあ」女「え、あれ口パクだったの?」男「え、気付いてなかったの?すげー笑ってたじゃん」女「だって漫才が面白かったから」男「ああ…そういう楽しみ方」女「私さ、チーズの話がウケた」男「ああいう発想ってどっから出てくるんだろうね」女「私もチーズの絵よく描くからさ」男「え、よく描く?チーズの絵を?」女「え、描かない?」男「いや、描かないよ」女「へえー」男「…?」女「ていうかさ、関西の女の人って、みんなAマッソみたいな喋り方だよね」男「いや、全員じゃないでしょ」女「あ、たしかに努力クラブの女の人は違ったかも。関西なのに」男「うん、あの人達は京都だからね」女「でも京都も関西じゃん」男「だいぶ違うでしょ。関東でも埼玉と神奈川の人だと違うでしょ?」女「同じだよ」男「ああ…」女「努力クラブは、あの図書室の前で告白する話が良かった」男「ああ、あれ面白かったね」女「いや、面白いっていうか、良かった」男「え、どう違うの?」女「あー、雨やだなあ」
窓の外を見る女。その横顔を見る男。
男「ていうか努力クラブって名前どういう意味なんだろうね?」女「さあ。そのまんまの意味じゃない?」男「そのまんま…?」女「てか雨でもハロウィンやるのかな?」男「ああ、どうなんだろ」女「そう考えると、逆にライスってどういう意味なんだろうね?」男「ああ…」女「私、ライスだと5万円の話が感動した」男「感動?」女「ああいう風に思い出せたらなあって。私ってさ、すぐ色んなこと忘れちゃうからさ。よく借りたモノとかも返し忘れたり」男「ああ」女「こないだもエミいるじゃん?エミにさ『私の時間返してよ』って怒られてさ」男「え、それどういう状況?」女「あ、ごめん、話それちゃった。市民プールはさ、全部カップルの話だったね」男「ああ、そう!男の俺からすると『分かるわぁ!』の連続だったよ。どうして女ってこう話が通じないんだろうって」女「ああいう女っているよねえ」男「…」女「人の話聞いてる?」男「え?ああ、うん」女「ホントに?男の人ってみんなそうだよね」
女がスマホを取り出し「あ、エミからLINEきてたんだけど」と笑う。
男は窓の外、スクランブル交差点ですれ違う人々を見る。そして、ふと「たぬきが皇族を装うって、なんか、良いな」と市民プールの話を思い出し、微笑んだ。(考える馬)

Reコント
渋谷コントセンターにやって来たみなさまに、どのようにコントを観るか、観た者としてアドバイスができればと思います。
なにより大切なのは『見る』ことです。なにが起こっているのか、なにが面白いのか。その発見は今後のあなたの生活にまで影響を及ぼし、日常を更に豊かにすることでしょう。
面白は日常にもごろごろ転がり潜んでいます。あなたの見る目が磨かれれば、それはますます露わになり日常の豊かさに気づくことでしょう。
では、前回の公演内容の話になります、出演順にまずはキングオブコント2017に出場したゾフィーです。彼らのコントの特徴としては【逆転する構造】がよく用いられていました。病気と戦う野球少年が、憧れの野球選手と〈ホームランを打ったら手術をする約束〉定番の設定ですが、ゾフィーはそこに〈憧れていない〉という〈逆転〉を入れてきました。この構造は今回のテアトロコントでは多く見られました。詳しくは後で話します。
 病気の少年は「頑張れよ」と〈憧れていない野球選手〉に対して応援する。病魔に蝕まれてる立場でありながらも応援する。
この〈逆転〉が笑いに必要な〈ズレ〉を生み出していました。
 その後のコントにも、このような設定の逆転を持ち込み、定番の設定をリノベーションし、あらたなコントを立ち上げる姿勢は、見慣れた風景に新たな視点を持ち込み、観客を退屈から抜け出す手引きをコントを通じて伝えていました。
続いて京都から来た努力クラブについてです、以前別の公演で観ているのですが、戯画的な印象があります。〈こんにちは〉を盗まれ、〈こんにちは〉が相手に伝わらなくなってしまった男、男が2人で話す背後にナイフを手に徐々に迫って来る別次元の人物、それらは前述した〈リノベーション〉というより〈ビルディング〉つまり〈建てる〉に近い印象がありました。構造からの脱却、お笑い方程式からの脱却と言ったところから、橋を作りながら川を渡っているとでも言いましょうか。しかしその「この川を渡りたい」という態度は笑いに対しての純粋な探求心を感じます。向こう岸に渡るのがいつなのか、そして向こう岸に渡りたいのか、行く末を見届けたくなる団体でした。〈これじゃない〉というベクトルから〈これだ〉というベクトルを提示した作品を観てみたいなと思いました。
市民プールは映画監督の今泉力哉が率いる演劇集団です。今回が旗揚げ公演ということでしたが、笑いは1,2を争っていたように客席では感じました。
笑いが生まれた理由のひとつに〈時間〉を有効に使っていたことがあると考えます、5分を5分としてその場で体感できる、これは演劇の持つ特性です。その時間の積み重ねが観客を舞台に近づけたのではないかと思います。舞台での時間を観客に感じさせることで、物語の中に観客を取り入れることができた、これは観客という存在が公演に大きな影響をもたらすという事実を証明し、それを手中にした市民プールの今回の公演は成功と言えるものでしょう。
映画からコントへ、というフレームの移行がまだ新鮮に感じられている今の気持ちを持って、他にはない視点からコントを生み出し、化学反応を起こし新しい笑いを作ることが、このテアトロコントの場と合っていると思いました。今後に期待します。
ザ・ギースは周知の通り知名度のあるコンビなので安定感のあるコントではあったものの、はたしてここ〈テアトロコント〉でそれを求められているのか、という懸念がありました。
テレビはと違い劇場は〈観たい〉と思って来ること、つまりある一定の期待値が存在します。テアトロコントはその値は高いと思っています。しかし、ザ・ギースのコントは親切に感じました。観客に笑いの提示がある、それが親切の原因だと考えます。その親切が〈観に来て〉いる観客の前で行われるとどうなるか、それは退屈です。観客は〈観に来て〉いて、観ることを強いられることを嫌がります。〈観に来て〉いるという観客の行為に対して、提示するという行為は観客の〈観に来て〉いる行為に対してストップをかけてしまうのではないかという恐れがあります。
テレビでは〈観に来て〉いないので、観てもらうために提示する必要がありますが今回は劇場ということもありその必要性は薄かったように思えます。
笑いの提示が行われた時、観客の権利である舞台への積極的参加の妨げになっていたのではないかと感じました。
コントの内容自体は面白いのですが、劇場で演ることを味方につけることで更なる飛躍が望めるように思えました。
今回のテアトロコントでは解体そして再構築、つまり笑いのリノベーションが起こっていると感じました。その先に待ち構える問題はなにか、そして今後どこに向かうのか、今夜もテアトロコントを通して笑いの未来を観て行きましょう(島十郎)

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