渋谷コントセンター

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2018年1月27日(土)

テアトロコント 特別編 2010年代結成ユニット特集!(2018.1)

主催公演

公演詳細

ガクヅケを観て途方に暮れる
今回のテアトロコントは特別編。2010年代に結成された「若手」と言える四組が集まった。せっかくなら全組について俯瞰的にとらえ、時代や世代について論じたいのだが、一組のことで紙幅が埋まってしまう。それほどまでにガクヅケは凄かった。
私の不勉強と鈍いアンテナのせいで、今回の四組(オルガナイザーGX, the pillow talk, ガクヅケ, 劇団「地蔵中毒」)については噂すら耳に届いておらず、それが幸いして「テアトロコントで初見」という贅沢な邂逅をすることが出来た。その中でもガクヅケは頭一つ抜けていたし、笑いの質・量をともにケタが一つ違っていたと思う。
彼らの演目は『キャー』『帰り道』『楽しみ』『ライブ』『問題』の五つ。繊細な人間関係を描くタイプの、所謂「演劇チック」なコントではない。一本ずつに全く違うアイディア( なんなら発明と呼んでいいレベル) があり、そのアイディアを過不足無く伝えたらスパッと終わる、潔い短編たち。特に度肝を抜かれた二本について書く。
『キャー』は素舞台に二人の女性(ガクヅケの二人が女装で演じる)が現れて始まる。舞台中央に向かい合って並び、半身をこちらに向けながら、バックで流れている『デビルマン』のテーマに併せてこう歌う。「誰も知らない知られちゃいけない レズビアンがどっちなのか」。爆笑に包まれる客席。私も笑った。保毛尾田保毛男問題もあり、性的指向を素材にした笑いには慎重でいたかったが、デビルマン=レズビアンの語感一致と、二人の衣装の途轍もないリアリティに私の理性は負けた。その後も主題歌に合わせ、「平熱が高いほうがレズビアン」等独自の判定方法でどちらがレズビアンかを発表していく。「これは笑っていいのか?レズビアンの人たちをバカにすることにならないか?」という理性は、まっすぐな瞳で朗々と歌う二人の姿に負ける。たぶん、この笑いには倫理を甘踏みする愉悦も含まれている。体感では「レズビアン」は歌詞に30回は登場したが、コント自体に性的指向をバカにする表現は無いと感じた。
『ライブ』。明転すると下手には長机、その上に軽食の山と二つのゴミ箱。特徴のない男が何か軽食の封を開けている。そこに「この辺でX-JAPANのライブがあるって聞いたんやけど」と呟きながらバンドのファンらしき女性が現れ、ふいに代表曲『RUSTY NAIL』が流れ出す。封を開け終えた男が、右側のゴミ箱にゴミを入れようと足踏み式のフタを開けたとき、観客に向いたフタの外側にはToshlの顔写真が貼られており、開いている時間だけToshlの歌声が聴こえ、閉じれば消える(音響の仕掛けで、カラオケバージョンに高速クロスフェードしているのだろうか)。左側のゴミ箱のフタには何もなく、こちらが開いてもToshlの歌声は聴こえない。ここまでの状況、読者諸氏は頭に描けただろうか。私は実際に目の当たりにし、思い出しながら記述しているが途方に暮れている。一体どうやってこの状況を思いついたのか?たとえ偶然ここまで思いついたとしても、「フタが壊れて閉じなくなり、Toshlがずっと現れたままでバンギャが狂喜する」なんて展開は、もう天才の所業としか言えない。
残り三本のコントも凄まじく、「天才!」と叫びたい瞬間が幾つもあった。個人的にはジャルジャルを初めて観たときくらいのショックを受けた。終演後、夜の渋谷の空気を吸い、こういうショックを受けるために生きているのかもと思った。(森信太郎)

音楽と笑いのあいだに
♪私 本当は目撃したんです 昨日電車の駅 階段で ころがり落ちた子供と つきとばした女のうす笑い
 私 驚いてしまって 助けもせず叫びもしなかった ただ恐くて逃げました 私の敵は私です
改めて書き記すと、恐るべき歌詞。コレを歌にしようと思ったところに中島みゆきさんの非凡さがあります。1994年「空と君のあいだに」と共に両A面シングルとしてリリースされた「ファイト!」。元々は1983年のアルバム「予感」に収録されていた曲です。それがシングルカットから20年以上の時を経て20代の若者たちにコントのモチーフにされるとは、流石の中島みゆきさんも予感すらしていなかったことでしょう。名曲はカタチを変えて受け継がれていく。それを実証した一例とも言えます。買い物からの帰り道、殺人事件の捜査をしている警察官の職務質問に全て「ファイト!」の替え歌で答える主婦。元々ある楽曲のチカラを巧みに利用し、ナンセンスな爆笑を生んだのは、マセキ芸能社の若手、ガクヅケ。音楽ネタを得意とする、今、注目のコンビです。
笑いには古くから“音ネタ”というジャンルがあります。あきれたぼういず、灘康次とモダンカンカン、玉川カルテット、東京ボーイズ、かしまし娘、横山ホットブラザーズ、ハナ肇とクレージーキャッツ、ザ・ドリフターズ、ポカスカジャン、牧伸二、ペペ桜井、堺すすむ、清水ミチコ、はなわ、マキタスポーツ、テツandトモ、どぶろっく、ANZEN漫才など。ガクヅケが彼らと大きく異なるのは、楽器を持っていないこと。それでも音ネタが成り立つことを二人は立派に証明しました。替え歌を好む点からは嘉門達夫の系譜にあると言っていいかもしれません。例えば「今日もどこかでデビルマン」の替え歌。ガクヅケの二人は微妙な女装をし、ユニゾンで歌う。
♪誰も知らない 知られちゃいけない レズビアンがどっちなのか
実はコレがこの日の掴みネタ。元の歌詞を音の響きが似た言葉に置き換えるという替え歌のセオリーにまんまとはまり、思わず吹いてしまったものの、同時に疑問が。知られちゃいけない?知られてもいいのでは?これだけLGBTが叫ばれているのだから。ネタは、レズビアンの特徴を偏見に基づき、あげつらい、どっちがレズビアンなのか判定するという構成。レズビアンと判定された者は高々と手を挙げる。リング上で勝者のコールを受けたボクサーのように。そこで納得。レズビアンは自らに誇りを持っていて、決して、それを知られたくない訳じゃない。社会の受け入れ体制が整っていないが故の“知られちゃいけない”だったのです。分かりやすく大衆的で気軽に楽しめる音ネタ。でも、音楽と笑いのあいだに隠された何かを読み取れば、その味わいはもっともっと深くなります。(市川幸宏)

特別編を拝見することで、普段の出演者の優秀さを痛感した。
【1】オルガナイザーGX<コント師>二人組/★★★☆☆/「肌荒れクリームありますか?」そうドラッグストアの店員に話しかける男は裸に金粉とブリーフ姿。「この時期は乾燥が酷いからね」。そう返す男性店員も、裸に金粉ブリーフにエプロン姿。紹介したクリームが肌にあわなないと、揉めだす二人。次第に便意を催した客が、唐突に店員にプロポーズ。夫婦なら共同作業としてお尻を拭いてもらえるしと提案。客「この国は、日本は、結婚しないとティッシュがもらえないんです!」店員「いいですよ…で、結婚指輪は?」客「恐れ多くも、もみじ饅頭で…」。こんな調子で金粉ブリーフ姿のまま四作品。設定もやりとりもオチも、突飛すぎて無茶苦茶だが、二人のキャラクターのせいかどこか憎めない。特にコント終わりに必ず言うお礼のタイミングが好きだった。
【2】the pillow talk<演劇人>出演者:五人/★★☆☆☆/集団自殺のために集った見知らぬ男四人と女一人。睡眠薬、火、車など、割り振った役割分担を誰もやってこないダメ参加者たち。しだいに男性四人が女性への性的願望を叶える肉欲な展開になり、乱交最中に女性は死んでしまう…。隣り合わせの死と性が交差する展開はある意味自然な事だが、登場人物の関係性ややりとりが単調で直線的すぎる感じもする。仕切っていた真面目な発起人、女性をくどこうとするヤンキー等に、もう少し関係性の逆転や押し引きがあると、テンションだけでない魅力が現れるのではないかと感じた。
【3】ガクヅケ<コント師>二人組/★★★☆☆/「誰も知らない知られちゃいけない〜♪レズビアンはどっちなのか〜♪レズービアン♪レズービアン♪レズビアンはしりとり強い〜」とデビルマンのEDテーマを、レズビアンをからかう替え歌から始まる。本人もバイセクシャルと公言しているからこそ果敢に挑む姿勢は好意を持ちつつも、この替え歌もおそらく電波放送上はアウトだろう。が、弱者とそれ以外の距離が笑いを生む以上、本質的にお笑いと差別は切り離せない。保毛尾田保毛男やエディーマーフィー物真似の黒塗りが地上波で問題になり続ける昨今、むやみやたらに人を傷つけてはならないことは言うまでもないが、劇場では最大限自由が守られている事も、劇場にお金を払う価値の一つだ。五作品ともにリズムとセクシャリティへのこだわりを感じるネタが揃っていて、今回の中では一番見やすく、優れたコントだったように思う。
【4】劇団「地蔵中毒」<演劇人>出演者:劇団員約10人/☆☆☆☆☆/森の中で、奥田民生の曲に合わせて仏壇を開け閉めしている男二人が、出会った女性の形見の母の銀歯を探してあげようとする『森』。ノリで河合俊一を土に埋めてしまった人達が右往左往する『誓い』計二作品。アンモラルな行動やセリフを、時事ネタ含めた掛け合いに詰め込んでいくやりとりが永遠と展開するスタイルに、固定ファンの笑いは鳴り止まなかったが、個人的には古いセンスと会話のやりとりがテアトロコント史上最も苦痛で耐え難く、一刻も早く劇場を去りたくなった。他のコントでも笑いの沸点が低すぎる観客がいるなと不思議に思っていたが、この劇団の固定客だと気づき、素直に納得した。
【総評】特別編を拝見することで、逆に普段の出演者の優秀さを痛感した。改めて敬意を評すとともに、学びを頂いた今回の出演者にも感謝したい。(モリタユウイチ)

劇場で観客にどう語るのか
テアトロコントでは上演の前に出演者たちが舞台にあがり、ユニット名、コンビ名のテロップを背景に短い顔見せがある。それは上演を前に我々観客に今回のテアトロコントはと想像させる、いわば「あおり」のようなもので上演前の楽しみでもある。けれど今回は出演者の顔見せが進むにつれて、なんだか静かに水の中に沈められてるような息苦しさがあった。いつもと違うこの感じ、そう「特別編」だ。今回は「特別編」なんだ。
最初の登場は全身を金色で塗った、白いブリーフを履いた2人組だ「特別篇」だ。そう今回は「特別編」だと思った。この全身金色の白いブリーフの2人組はオルガナイザーGXというコンビで、噛み合わない会話が行われるが、進行していくという、会話は「個人」と「個人」が喋っているものだという冷ややかな視点を持って構成されていた。人と人は分かり合えないという根本を熱意などで「分かり合えるんだ」などと言おう者がいれば「無理じゃん」とぼそりとつぶやくであろう批評性がこのコンビの武器に思える。
分かり合えない面白さ、違うという豊かさ、そこを更に広げて「分からないことの良さ」をネタにどんどん活かしてほしい。
そんな金色の2人のあとになにをするのかと心配な中、the pillow talkの幕が開いた。自殺志願者が集まる一室で、それぞれの現実を生きにくい身体がやはりここでも、持参するべき自殺するための道具を忘れてしまうという失態を引き起こし、死にに来たのに死ねないという荒野に立つことになる。しかし死ねなかったということが新たなステップになり、生(性)のオアシスを発見してしまう。生きたい(イキたい)という微かな望みが、死にたいから生きたいという逆転構造を生み出している。構造は良いと思う、けれど語り方が観客の想像力を奪ってしまったのがもったいないところで、そんなに舞台状況を語らなくても良かったと思う。童貞の彼が童貞喪失のチャンスを前に、たじろいでるそこに観客の想像領域があり「やりたいんだろうな」と想像する面白さが演劇のゲーム性の一端であって、状況を語る場面の多さに、想像力を奪われたこちらには笑いよりも退屈しか生まれなかった。
後半の乱交シーンをダンスで見せることも、劇構造を含めて考えると、いささか設定の「型」を保ち過ぎて不自由になっていたように感じた。もっと自分たちがやりたいことをできるように、自由な発想を観たい。
ガクヅケは芸人の方々からは既に知られている存在であり、今回のテアトロコントでも特別な存在感だった。それぞれのネタにお笑いルールがあり、それをネタの開始から間もなく観客に了解させるスピードがあり、どれもガクヅケのネタであるという文体のようなものが感じられた。文体というよりも音楽を多用しているところから、リズムと言ったほうが合うように思う。そのリズムの使い方もルールを伝えるためのツールとして有効に働いていて、独自のグルーヴを感じさせてくれた。また観たい、そう思わせるクオリティの高さがあった。ネタの中に特定の人を傷つけるようなフレーズがあるけれど、べつに必要でなければ捨ててもいいと思う。才能があるから。
いろんな意味で出演者が次のハードルを高くしたり曲げちゃったり隠しちゃったりする中で地蔵中毒は観客と共にジャンプすることに成功していた。
劇の中で行われる笑いに対しての突っ込み、いわば批評を観客に手渡したことで舞台に観客を引き上げ会場全体で笑いを作り上げているように思えた。これは他力本願ではない、なぜなら観ているこっちが突っ込みをせずにいられないほど登場人物がバカなのである。
このバカは差別的でないのが「役」というフィクションが担っていることと、バカが舞台と観客を繋ぐものとして寄与しているからだ。構造の中の大黒柱である。
そして固有名詞使い方、更にそこに加える台詞のセンスが冴えている。
「川合俊一を土に埋めた」と舞台上で語られる、観客は言葉を聞くと想像せざるおえない状況下にいる、劇場の特性と人間の生理を利用し笑わしてくれる。素晴らしい。
台詞によっては知らない人は笑えないという危惧もあるけれど、その知ってる知ってないの中間を見極めるバランス感覚は様々なメディアが発達した現代の「どの情報が面白いか」という速度のある取捨選択、見抜き言葉を取り出し活かすことに挑戦してほしい、それが笑いを生む批評性に繋がることだと思う。
けれどなにも知らない観客との共犯を望んだ場合、どんな手段で挑むのか。どこで生きていくかは彼らの生き方であり口出すことではないけれど。(島十郎)

特別編はとっても良い試みだと思うのでもっとやって欲しいなと思った(28才・男性)
↓※文体が非常に滑りやすくなっていますのでご注意下さい
《オルガナイザーGX》R.I.P.柳瀬尚紀の親父(オヤジ)も言ってたように日本語は天才らしいがその分肝っ玉がちっちぇえみたいで相手をバカにする言葉が海の向こうと比べてバリエーションが少ねえというか、なんか、バトル用のフレーズがあんまエレガントじゃねーんだよな、そのボキャブラリーの無さの行き着く先がナカイの窓のR-指定とバトルしたダイノジ大地さんよ、「うるせえうるせえうるせえ」連呼ってな、かっこいいだろ、だがオルガナイザーの兄(あん)ちゃんたちの使うフレーズは、ウラジーミルのソローキンが使うエレガントな卑語(マート)、アンソニーのバージェスが生んだナッドサット語、ピーチピットのナットさんの格言を「和訳」したときのいけてねーきちー言葉をフリースタイルでもバトルでもねえコントにブチ込むとどうなんだっていうトライアル、SUMMIT以降(OMSBとQNも手打ちしたって言うしよ、これからホント楽しみだぜ)の感覚をニッポンの笑いとディールしてくとどうなんだっていう、そういうアレなわけ、面白えじゃねえの。意外や意外同じバイヴスが平成ラスト&ビッグな戯曲家・松原俊太郎にもある、チェックしときな
↓※基本毎回良い部分を見よう見よう褒めて褒めて書いていこうと決めているんですが、今回ばっかりは無理かもしんないです、劇団紹介にも「日々蔓延する不愉快に抗ったり受け入れたりする現代人に敬意を持って嘲笑し」とあるので胸くそ悪い場面設定展開は狙いなんだと思うんですが、徹底しきってないポツドール、ちょっと人数の多いインパルス、くらいの印象なもんで、大森靖子が歌詞に込めるブレヒト的異化のための反語とかとしても機能するわけでもない、長い踊り場面も長いのが笑いにつながると思ってやってるんだろうなというのが透けて見える程度にあざとい作為(演劇的な「豊かさ」あっと言う間さに対しての「貧しさ」経過時間がそのまま経過時間にむき出しになるような野性爆弾のオールザッツでのオチやミズタニーの相撲シーンが持つ強度とも違う)、など機能不全に陥った「面白く無さ」が面白いに転ぶような事でもない限り救えないんですがそういうことは起こります。市原佐都子のQの最初の印象がそれでした。この消化不良な受け付けられなさ、うすら寒さ、のコアにこそ全く新しく賭けるべき笑いが広がる可能性があるのかもしれないですね
《the pillow talk》特になし。
↓※内容言っててマジで意味つながってってない部分はご了承ください、トシ、ネプリーグのとかを捨てましたし
《ガクヅケ》コピーバンドとは何のために存在するのか。カバーバンドならまだ分かる。モノマネはお笑いか。イロニーを伴うモノマネはすべからくお笑いである。同一化への見果てぬ夢を持つモノマネ芸人の「痛さ」をやしろ優は向上委員会でリークした。スリムクラブは過去に他人のネタを「コピー」した、がその差延によってそれ自身を内破した。ナイツも他人のネタを「カバー」した、しかしそれは仄めかしに止められた。ガクヅケはどうか。そこに散見されたのは「替え歌」である。原曲がある以上その歌詞軸からの小ずらし大ずらしは自在なメロディ大喜利と化している。音楽はその昔から資料収蔵体=アルシーヴとして利用価値を見出されてきたが、近年の、コロコロチキチキペッパーズ、にゃんこスター、などBGMとして「曲をまま流す」という時期を過ぎ(仏Kitsunéと同じ名前を持つ(それはたいそう皮肉なことだが)「きつね」はBGMとしての音ネタの突先にいる)、揺り戻しとしてのある種愚直なまでの替え歌、「歌詞」、言葉をこそ再検討すべきというその姿勢は買いたい。
↓※やっと思いついた閃いた!みたいなのがよく確認したら過去twitterに書いてたのの焼き直しでした
《劇団「地蔵中毒」》劇団「地蔵中毒」と(『演出した作品が批評紙「ゲンロン」や雑誌「美術手帖」にあって紹介されるなど近年注目を集めている』業界最注目株ミニマリスト演劇の)新聞家には両方意外と記名的な部分が2団体似ている。『ただ使う単語の種類が違って照れで丸亀製麺なのが新聞家で、デフォで富士そばなのが地蔵中毒。ウェルチと井脇ノブ子の違い。横断する田中康夫はいる』。佐々木敦プロデュースのもと芥川賞作家滝口悠生の「高架線」を舞台化した小田尚稔との近さも最近出てきてて、阿曽山大噴火とかもえのあずきとか絶妙の芸能人のチョイスセンス、クイズ☆スター名鑑・クイズ☆タレント名鑑の藤井健太郎的とも言える「ちょうどいい芸能人」をレアグルーヴとして採用する才覚は3団体ともにあります。上では田中康夫としましたが、「ペンギン村に陽は落ちて」期の高橋源一郎の混ぜ感の方が地蔵中毒にはお似合いです。(小高大幸)

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