2017年4月28日(金)~4月29日(土)
テアトロコント vol.18 渋谷コントセンター月例公演(2017.4)
主催公演
公演詳細
パーパーとテニスコート、人と人の分かり合えなさについて。
パーパー『夜の公園』『落とし物』『海岸』『募金』『将来の夢』 : 仲の悪さを隠さない男女コンビのパーパー。コントという物語の中でも、時にその気まずさが良いクセを出していた。特に素晴らしかったのが『将来の夢』。女子高校生が男子高校生に、自身の夢の為に退学することを告げる。彼女の夢は、映画の主役を張るようなトップ女優だ。それを聞いた彼は彼女に、とても言い辛いことを言う。言い辛いこととは、あえて身も蓋もなく表現すれば、「ブスはトップ女優にはなれない」ということ。コントの構造として、彼は「彼女がいかにブスか」をプレゼンしなければならない。当然だが、人の外見を否定するのは下品な行為である。よしもと新喜劇やお笑い番組やの「ブスいじり」でも、人は下品なことと知りながら、毒のような笑いに魅せられて、時に不快になりつつ笑ってしまう。
しかしこのコントに下品さはない。繊細なバランスの上で成り立つ、ある種の上品さすら感じる。彼の観点では、彼の発言は罵倒ではなく、彼女の為を思っての発言である。彼は彼女を愛し、途中愛の告白まで行う(当然失敗する)。「あなたは女優ほど美しくはないけど、それでも私は愛している」という言葉に嘘は無い。また、彼女のどこが美しくないのか、具体的指摘されず個人攻撃にならない。更には「スポーツ選手になればいい」「ゴルフがうまそうな顔」など、ワードセンスも素晴らしい。このような「甘み」と逆方向に、当日パンフでも示されたコンビ仲の悪さが程よい辛みを加える。この時代にあって、男女コンビ内、男→女の「ブスいじり」には繊細な感覚が要求される。「南海キャンディーズ以降」のいま、パーパーはもっと注目されるべきだと思う。
テニスコート『面会』『花子』『儀式』 : 特に『花子』が素晴らしかった。二人の飼育員(それぞれA,Bとする)と、その上司。園内の人気者のゾウ・花子は、飼育員C(舞台上には登場しない)を踏んで殺めてしまった。このままでは花子は殺処分される。この回避策を会議で探る。
常識的な提案を続けるAに対し、Bの異常性が明らかになっていく。Cは花子(メス)の精子を肉眼で見る為に近づき、死んだ。ゾウほどの巨体なら、精子も巨大なのではないかと考えた。巨大説をCに吹き込んだのはBである。BはCを弔う為、アイスの木の棒で園内に墓を作った。ザリガニじゃないんですよとAは憤る。上司もおかしい。Bのむちゃくちゃな提案は、Aの命を奪いかねない。しかし上司は反対せず、Aの飼育員としての責任感を問う。猛獣の檻に生身で入り、マスコミの関心をずらせと命じる。Aは死の危険性を訴えるが、Bも上司も「死んじゃう?っていうのがよくわからない」と本気でポカンとする。序盤、Bの異常性を笑うものだった(Bがボケだった)このコントが、次第にAと他二人の決定的な断絶を描く演劇に変わっていく。断絶の度合いは不条理を超えて、恐怖ですらある。会話の応酬の中で、AやCの「死」の重みがどんどん失われていく。ただそれが不快ではなく、あっけらかんとして、むしろ痛快ですらあった。
今回取り上げた2本は、ともに「分かり合えない」様を描いたものだった。「自分は正しい」と主張するもの同士の、時に深刻な対立。それは笑いにおいて最上の火薬の一つだと思う。(森信太郎)
話の精度が高い30分コント/演劇
【マッハスピード豪速球】芸人さんがテアトロコントに出る際の傾向として、オムニバス的に一つの傾向に沿った数本のネタをし続けるやり方や、披露する持ちネタ数本のその前後を繋げる事でざっくりと一つのお話っぽく見せるやり方などがある。演劇に近づけるための手段なのだと思うが、マッハスピード豪速球はそこへの情熱のかけ方が全然違う。4~5分の持ちネタ1本を“起”とし、それがしっかりお話になるように、承・転・結になるコントも新しく卸して出演する。そして今回のコントは話のクオリティも高く、ワードセンスも秀逸であった(「高倉健の現場では座らないエピソードが大っ嫌いなんだよ!」はハイライトでした)。自分たちの単独が終わった後の2日間で作ったため、強引な所もあったみたいだが、それが逆にエモーショナルを掻き立てる終わり方になったと思う。そういえば『君の名は。』もご都合が強引な映画だったな。
【わっしょいハウス】舞台上手側でずっと女が煙草に否定的な主張を続ける。下手側で男2人が煙草を吸い続ける。上司の男が部下の男に対し、何の意味もない事を大げさに言い続ける。これが前半部だが特に面白みはない。後半に入り、部下の男が上司にモテる秘訣を聞く。それを上手側の女に対し実践するのだが、観客には何のアドバイスにもなってない上司の言葉を実践してデートの約束など取れる訳がないという印象が付いている。また、この女には煙草を吸う男を良しとしない印象もある。そこを裏切ってきた。デートに乗り気が無いと見せかけてどんどん乗って来る。あんなに否定していた煙草を吸い始める。女が煙草を吸いだした瞬間に部下の男がドン引く。この一連の流れで笑いをかっさらっていった。中でも後藤ひかりの演じる女がデートにノリノリで行こうとする様が、それまでの流れからは絶対にありえない展開だったため、その急さに笑いが止まらなくなった。「日常性からの逸脱、昂ぶり、そんなプリミティブな《わっしょい》をこのステージに載せられたならば、この作品は成功したと言える」とテアトロコントのパンフレットに脚本・演出の犬飼氏が記しているが、私はまんまとやられました。(菅野明男)
社会を勝ち抜くのではなく、生き抜くために
人間は二つのタイプに分けられます。強者と弱者。一昔前の言い方をすれば、勝ち組と負け組と言ってもいいかもしれません。ゾフィーの上田航平さん、ラブレターズの塚本直毅さん、ポテンシャル聡さん、玉田真也さんの4人を中心に結成されたユニットは、その名の通り「弱い人たち」の目線で、彼らを取り巻く状況のやるせなさを描いて笑いを誘います。
実際にいそうな、もしかしたら、本人たちが実際にそうだったのではと思わせる、いかにも気弱な学生たち。「ここ街なかだよ。カツアゲされないとでも?」と言いながら、靴下などに隠し持っていたお金を取り出す面々。このワンシーンだけで彼らの立ち位置がありありと浮かび上がってきます。そんな中、隠し金を持たず、有り金全て、しかも、3万8000円という大金を奪い取られた上田さんが唇を嚙み締めながらも、羨ましそうに3人を見つめ、ある提案を投げかけます。ワリカンです。笑いましたね。普通、そんな発想ないからです。でも、どうでしょう、もし、実際に、そんな絶望的な立場に置かれたら…?常識ではあり得ない発想が、つい言葉になって出てしまうということは、十分考えられるのです。追い込まれた人間がとる行動。それは、極めて喜劇的であるという真実をこの作品は物語っています。
お金を題材にした作品がもう一つ。学生服姿で街頭に立ち、募金活動をする4人。中でも、ボランティア活動に意義を感じ、やる気スイッチ全開なのが上田さんです。自転車移動で電車賃を浮かし、水筒を使うことで飲料代を浮かす。そして、そのお金を募金に回そうと仲間たちに促します。熱く、強く。ところが、彼らと全く対照的な、いわゆる、チャラい若者集団がすぐ近くにやって来ると、上田さんの熱が一気に冷め、まるで借りてきた猫のように。いますよね、こういうタイプ。仲間には強くものが言えるのに、苦手な相手にはシュンとなっちゃう人。タクシーでやって来た若者たちは、あろうことか、すぐ隣で募金活動を始めます。音楽を流しながら、チャラい感じで。あからさまに嫌悪感を抱く4人。ところが、よくよく話を聞いてみると、彼らは著名人や大手企業のバックアップを受け、効率的に社会活動を行っている組織の一員であることが明らかに。格差が歴然となり、4人は押し黙るしかありません。やりきれない思いがじんわりと観る者の心に染み入ります。
世の中には必ず強者と弱者が存在します。どんな小さな集団の中にも。一瞬で立場が逆転する場合もあれば、どんなにあがいても変わらない場合も。「弱い人たち」の立ち居振る舞いを目の当たりにして、私たちは思うのです。目指すは、弱者からの脱出ではない。弱くたっていいじゃないか。だって、それが人間だもの。(市川幸宏)
「弱い人たち」を笑うのは誰か
あなたが笑った「弱い人たち」の笑い方と、わたしが笑ったが笑った笑い方は一緒だったんでしょうか。ここで一旦人間を差別します。弱い人たちがネタ中で提示した「あっちの方々」と「こっちの人々」、人間は簡単にその2つの人種に分かれてしまいます。学生時代を思い出してみて下さい。スクールカーストの上位に君臨する「あっちの方々」と、下層に位置する「こっちの人々」。「あっち」と「こっち」それぞれの属性の笑いの種類が同じ訳がなく、また「あっち」が「こっち」を笑う笑い方と、「こっち」が「あっち」を笑う笑い方は全くの別物です。(「弱い人たち」の立場から見ているため「こっち」と「あっち」になっていますが、「あっちの方々」のおわす場所からすればむしろ「あっち」こそが「こっち」の事です。ヒエラルキーに準じれば本来「あっちの方々」ではなく「あちらの方々」と訂正すべき程、決定的な差があります)。
簡単なチェックを行います。「弱い人たち」のネタを見た時に、
●A【「うわ、だっせー、あいつらまじうけるんだけど」】と思われた方
●B【「うわ、わかるわかる、かわいそうだけど自分じゃなくてよかった」】と思った人
上記2択でどちらがより自然に心に浮かんだか、近い方を決して嘘をつかずに選び、下記該当部分のみをお読み下さい。
●Aをお選びになった方→【あなた様は「あっちの方々」かとお見受けします。Nujabesとかお好きですか?カッコイイですよね。まさか帰国子女だったりしませんか?やっぱり発音からして一般人とは違うなと思ってました】
●Bを選んだ人→【「こっちの人々」ですね。(Aを選んだ人の前では言えないのでこっそり書きますが、おそらくAを選ぶ人には加虐心があり、それを煽られた結果笑っています。怖い笑いですね。その点、Bを選んだあなたには被虐の立場に置かれた人への共感を示す気持ちがあります。優しいですね。最初の段落などではAを選ぶような奴らをいい気にさせとく為にBを選ぶだろう人たちを少し蔑むように書きましたが、筆者は高校時代、掃除の時間に黒板をピカピカにすることだけに全力を注いできた「こっちの人々」です。安心して下さい。Nujabesとか聴くタイミングが生活にないです。帰国子女とはまともに話せる気がしません。そんなBを選んだ「こっちの人々」のホープこそが「弱い人たち」なのです。彼らは「あっちの方々」にいじられてきた本物の身体を武器に「架空」の物語を生み出しています。みなさん目を背ける必要はないんです。実際に起きたことではないんです。彼らのおかげで「架空の自虐」を生み出せる段階まで我々はきました。「あっちの方々」がそれに気をとられ、笑っている間、私たちは安息を手に入れたのです。ともに「弱い人たち」の活躍を祈りましょう)】(小高大幸)
初登場2組! パーパー、わっしょいハウスに見えるテアトロコントの“期待と機能”
まず、私的な話題で大変申し訳ないが、テアトロコントを鑑賞するのは実に半年ぶり。その間、界隈を賑わす化物たちが、渋谷の小さな劇場で見世物小屋よろしく好奇心を刺激しまくる演目を上演しているのは耳にしていた。そして、半年ぶりに見たテアトロコントは、その予想を当然のように裏切ってきたのである。以前は、コントや不条理といった演目を得意とする劇団を推しているイメージがあったが、「メンヘラ」「ブス」など一歩間違えば炎上しかねないネタが映える「パーパー」、ひたすらタバコを捨てるという不可解な空気から一変、急に恋愛ドラマへと飛翔する「わっしょいハウス」らが登場。この二組は、テアトロコントが推してきた「ナカゴー」「トリコロールケーキ」などと似通った作風を持ちながらも、徹底的な差異がある。初登場の彼らを、過去4回出演した「テニスコート」、「玉田企画」の玉田真也とコント職人たちによる、テアトロコント発のユニット「弱い人たち」との回に満を持して持ってきたことには、主催側の期待と苦悩が垣間見える。
パーパーは、男女によるお笑いコンビ。コンビ仲の悪さは、本人たちの語るところによるものだが、実際にも悪いらしい。その一方で、特徴的な話し方と間を得意とするほしのディスコと、淡々とキャラクターを演じる山田愛奈。既視感のあるカップルコントなのだが、どこか新しい。おそらくやり尽くされたネタやボケを効果的に用いることで、素晴らしい構成になっているのだと思う。
いよいよ20回が近づくテアトロコント。このお楽しみをぜひとも味わってほしい。(早川さとし)
関係性と言葉のおもしろさ
1組目のマッハスピード剛速球は深夜のコンビニを舞台に「下の下の」人々に人生が交錯した末に、『君の名は。』的な世界観に逢着する、生活に根強く絡みついた太い長編コントでその展開の妙に魅了された。自分より下の人間を見下さずにはいられない登場人物たちの心根に爆笑しつつ、そんな人々が自分の現在の立場にしがみつく様は他人事ではなく揺るぎないリアリティがあった。映画の撮影中に決して座らないという高倉健のエピソードが大嫌いだと吠える男にもどこか共感してしまった。卑俗な人々を描きながらどこか共感できるのは、彼ら自身の「下の下の」人々への共感と理解の賜物ではないかと感じた。
2組目のわっしょいハウスは喫煙所でぼやきや愚痴が交わされ、あるいは見えない煙が吐き出される中で男女3人の関係性がゆっくりと変化していく『木星の日面通過』で繊細かつ大胆な世界が展開された。喫煙所で吐き出される煙の代りにとめどなく吐きだされていく言葉が舞台上に充満していき、その言葉たちが流れる先を舞台上の空間が後から追いかけていくような自由な感覚があり、それと同時に際限なく捨てられていくタバコがその言葉を具体化したような作品だった。モノ、コトバ、そして人間の三者がとりなす微妙な関係が舞台上に具現化される様に、強く惹きつけられた。
3組目の弱い人たちは誰もが抱える弱さを惜しげもなく舞台上に表し、そこからにじみ出る汚さも笑いに変えてしまう三本だった。前半の二本は学生時代を舞台とした男子4人組が登場する『カツアゲ』『悪ノリ』で三人より多くカツアゲされた一人が割り勘にしようと持ち掛ける感じ、悪ノリして教室のガラスを割ってしまった四人がやってた悪ふざけを先生にまたやらされる感じが絶妙にありそうでざわざわした。もう一本の『告白』はバイト先の女性を好きではないという謎の告白をしてしまう男たちがたまらなくおかしく、その先の展開の意外性も斬新で見事だった。
4組目のテニスコートは深刻な場面に奇妙な発想を紛れ込ませる三本で緊張と緩和を見事に表現していた。『花子』では動物園で飼育している動物を殺さなければならないという緊迫した空間でアイデアが暴走していく様が3人の微妙な関係性の中で緻密に描かれていた。最後の『儀式』は宗教団体の怪しい集会の最中に、なぜかおでんの具のイメージが入り込んでくるというめちゃくちゃな設定でありながら、静かな演技の説得力で観客を引き込んでいた。設定と言動のかみ合わなさのバランスが絶妙で、丁寧な台詞が笑いを生んでいた。
今回は舞台に登場する人々の関係性で面白さを生み出す作品が光っていた。会話の中で思わず飛び出す言葉は人間の思わぬ姿を見せてくれる。そんな状況を舞台上に作り上げるのは演劇でもコントでも欠かせないことだろう。様々な状況で生まれる言葉が今回の舞台を鮮やかに彩っていた。(柏木健太郎)