渋谷コントセンター

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2020年11月26日(木)~11月27日(金)

テアトロコント vol.48 渋谷コントセンター月例公演(2020.11)

主催公演

公演詳細

演劇界のコミックエッセイ
いい大人になるとナウでヤングな人たちと気さくに会話する機会はめっきり減ります。年々それを痛感するようになったという紳士淑女も決して少なくないでしょう。流行に乗り遅れ、オジサン、オバサンの烙印を押されないようにするにはどうすればいいのか?どこに行けば、今どきの話題やトレンドをキャッチすることができるのか?「そうだ!いざキャバクラ」と夜の街に繰り出すオジサンたちもかつては多くいたでしょう。ホストクラブに潜入したのをきっかけに沼にハマって抜け出せないというオバサンたちも。ところが、コロナ禍でそれもままならない世の中に。行き場を失った大人たち、彼らに救いの手を差し延べたのが通話アプリという名のテクノロジーです。ステイホーム中、家にいながらにして見ず知らずのJKとも気軽に話せる魔法のツール。そんな最強の武器を手にしてしまった人物がいます。俳優・田中祐希(30歳)。ひょんなことから、きなこと名乗るJKと出会い、何の実もない、とりとめのない話を何時間も続け、喜びに浸る祐希。その翌日も二人はニヤニヤしながら名前を呼び合い、じゃれ合います。そんな一俳優の実体験をもとに作られた演劇を本人が演じた、ゆうめいの『祐希』。一見、キモイだけの日常。しかし、紛れもなく内在する現代性とペーソス。祐希は自分が俳優であることを明かし、テアトロコントの舞台で二人のやりとりを演じることに。会場にきなこが駆けつけて、コールアンドレスポンスに応じてくれることに微かな期待を寄せて舞台に立ちます。薄暗い客席を食い入るように見回す祐希の表情が切なさを何倍にも増幅させます。
ハイバイの岩井秀人さんは、自分がひどい目にあったことを取材し、それをもとに演劇を作ることをライフワークとしており、自らを私演劇作家と呼んでいます。暴力やいじめなどの体験を人に話したら笑い話になったことをきっかけに演劇を始めたという、ゆうめいの池田亮さんもその系譜に連なる劇作家と言えるでしょう。ただ、悲劇としての実体験をより喜劇として描いているのは池田さんの方ではないでしょうか。
近年、漫画の世界ではコミックエッセイというジャンルが人気ですが、それになぞらえて言うならば、ゆうめいの演劇はコメディエッセイと呼べるもの。エッセイは実体験をありのままに描くというものでは決してなく、俗に「盛る」と言う誇張表現をすることで笑いという名のサービスを提供する文芸。テレビやラジオのエピソードトークもまた然り。ゆうめいの作品も少なからず盛られていることでしょう。でも、それでいいのです。大事なのは同情を誘うことではなく、笑顔の輪を広げることにあるのだから。(市川幸宏)

ゆうめい『祐希』生の観劇体験としての強さ
11月27日回のハイライトはゆうめい『祐希』だった。舞台はコロナ禍の緊急事態宣言が出された、東京のとある部屋。出会い系アプリで知り合った俳優・田中祐樹と茨城の女子高生・きなこのお話。まずは序盤の母親とのLINE通話が馬鹿馬鹿しい。母親の声がサンプラーで出されており、その機械めいたニュアンスで「中途半端はいかんよ」との音声がリフレインされる。「多分、祐希って中途半端キャラとして描かれるのかなぁ~」と思っていたら、その母親との通話の後、速攻で出会い系アプリ『斉藤さん』を起動していて笑った。中途半端というよりは、どうしようもない男として描かれている。「ヤバい奴が多くいる」という出会い系アプリあるあるを経た後に、茨城のJK・きなこと繋がる。祐希はそもそもこのアプリ内で台本ありきの配信を行っており、それをきなこはガチの配信として見ていた。それをきっかけに2人の話は弾んでいく。「JKとおしゃべりがしたい」という願望があった祐希はずっとギターを抱えており(その配信内でもギターを弾き語りしていた)、きなこから「祐希」と名前を呼ばれるたびにムラムラと比例して、持っているギターの手つきや動きが大きくなる酷さの情けないことやら。でもこれも、「コロナ禍」という人類にとって深刻な状況の中で行われていたことと思うと、どこか微笑ましくもある。この演目は田中祐樹自身のコロナ禍での体験をもとに台本を作っており、どうしたって田中祐樹自身が緊急事態宣言のときにどう過ごしていたのかが伝わる。そして最終的にはそのときの出来事や思いを歌にする。その人物の背景や人となりが分かり切った上での歌は強い。しかもライブで。『テアトロコント』は配信は行っていないが、この演目は配信で見てもあんまり意味がない気がする。田中祐樹が振舞っていること全てがかなり痛々しいものなので配信だとそれは結構見てられないものになるかもしれないが、生の舞台だとその痛々しさは自分に跳ね返ってくるし、変態と思える行為も「自分もやりかねないな…」という思いにさせられる。ライブによる説得力の強さを思う。そしてギターのチューニングもズレまくり、キーを外しまくったJKに捧げたダサめな歌もバキバキに感情移入してしまう。これは「笑わせる」に特化して作られた約5分のお笑いの1ネタにはどうしても敵わない強度がある。お笑いのネタは無駄を省きがちなので、「フリ→ボケ→ツッコミ」のワンセットを提示して、そこに「かぶせ」や「たたみかけ」などのテクニックを用いて「オチ」に向かおうとする流れがどうしても見えてしまう。それは無駄がないから。最初の設定からボケまでのところで「これはこういう仕組みのお笑いです」を提示されたら、そこからはみ出るようなことは基本しない。それよりは「これから一体何を見せてくれるのだろう」というのが分からない演劇側のほうが『テアトロコント』は強いなと思った。それでいうと今回出演した柳沢茂樹と鳥山フキによる『ラッコ』は見た後も分からない気持ちに。これは本当に配信で見る意味はないかもしれない。でも生で見ると、「何か分からない空気感」が存在することは分かる。「これは演劇なのか、落語なのか。この人たちは何なのか。同じ地域の話なのか。たまに重なった登場人物が出てきている気がするが、同一人物なのか。”時の申し子”は果たして何だったのか。」その想像力をかき立てられるうちに演目が終わった。私は分からないことも分からないまま胸に収めておくことも、贅沢な観劇体験かなと思っている。(倉岡)

やさしいズの狂気
【やさしいズ】
【模倣犯】刑事(タイ)は、連続殺人事件が、探偵ものの連載漫画を模倣していることに、その漫画の熱烈な読者であることゆえ見抜く。しかし、犯人逮捕につながる手がかりが載っている少年漫画誌の最新号を「単行本派」であることを理由に、読むことを拒否し、後輩刑事(佐伯元輝)と揉めるという話である。佐伯が常識人、タイが変人という構図が分かりやすく、プレーンなコントとして楽しめる。一方、雑誌の名前が練られていてクスリとさせられたり、終盤に至るまで、「漫画の熱狂的ファン」という設定による面白味が続き、飽きさせない。
【恋愛バラエティ番組「らぶのり」】恋愛リアリティ番組の先駆け、「あいのり」の一番の見せ場のパロディ。女装した佐伯の告白を断る理由が「ドラマティックな恋がしたくてラブワゴンに乗っているのに、同じ溝の口出身の彼女は欲しくない」というもの。佐伯の口から、どんどん飛び出す「あいのりに出演しなくてもこの2人は出会えてそう」という笑いと、タイが観念してどんどん付き合うことに前向きになっていくさまが面白い。恋愛バラエティには、演出、やらせの問題が付きまとうが、ここまで大胆なやらせならいっそ面白くなるのではないかという問題提起とも取れる。
【渋谷区円山町で】美人局の被害者である銀婚式前の家庭があるおじさん(佐伯)と、強請をするヤクザ(タイ)の関係性が、一瞬で「将来の義理の親子」という180度異なる展開となるのが面白い。佐伯もタイもどっちもどっちという感じがするのだが、佐伯が終始上から目線だったのが妙に面白かった。このコントを見て、佐伯の妻にあたる人物に同情しないものはいないだろう。
【美雪ちゃんの体操着】声を出して何度も笑ってしまった。体操着を盗んだ男子学生(佐伯)とそれを見た不良風の同級生(タイ)。佐伯は絶体絶命の中、「記憶喪失にさせる技」を披露するのだが、超能力が使えるわけでもなんでもなく、自分が記憶喪失のふりをするというシンプルな作戦。しかし、他に証人がいない場面では、意外なほど効果を発揮することが分かる。
全てのコントを通じて、佐伯は、一見するといじめられっこに見えるのだが、サイコパス感があり、独特の狂気を発している。タイは一見、粗暴なやくざ風だが、真面目、常識人、優柔不断といった役割が映える。脚本も序盤の伏線を回収していたり(少年漫画誌のステップ、ココイチのカレー、サプライズパーティー等)して非常に洗練されている。(あらっぺ)

私たちは「展開」など待っていないはずだ
テレビ番組でのコントや漫才に対する寸評を聞くと、とかく「展開」というものが重要視される。「もっとちがう展開がほしかった」「何か別の展開を期待してしまった」という声を聞くと、また同じことを言ってやがると思いながらも、観客がどのようなものを求めているかを考えさせられる。それは舞台上の演者として考えさせられるのではない。私はコントを披露する芸人でも、演劇を披露する役者でもない。ただ、もう二度と戻ることのできない観客席にいたときの自分に、あの時間に、どのような言葉をもってして遡るのかということが問題なのだ。果たしてあの時の私は本当に「展開」などというものを求めていたのか。そもそも、何かを求めながら舞台を見つめているのが観客であったときの私なのか。最近あまりに簡単に使われ過ぎていると思われる「展開」という言葉に着目しながら、11月27日公演回を振り返る。これは、3組のコント師/劇団の演目を振り返りながら、テアトロコントという、コント/演劇をはじめとしたあらゆる境界を揺れ動かす場にいた我々観客についての考察でもある。
ここまで「展開」という言葉への疑問をのべてきたが、だからといって淡々と誰もが予想できる物語が進行することをよしとしているのではない。私だって同じような出来事が何度も起こるのは退屈である。1番手で出演したななまがりの演目を振り返ると、このような意味でやや退屈に感じた。奇妙な設定やキャラクター、小道具には目をひかれるが、それも次第になれてしまう。
しかし、最後に披露された『ありがとう』は強く印象に残った。おそらく当日のななまがりの演目の中で最も観客の反応が強かったのがこれであろう。なぜこれが印象に残ったか。それは「でも」という接続詞をもとめる我々観客の身体が生き生きとするからである。ひどい仕打ちをしてきながらも些細な気遣いをみせてくる同僚に、男は「でも、ありがとう」と言ってしまう。「でも、ありがとう」という言葉が繰り返されると、次第にその言葉を聞いた者は「でも、ありがとう」を求めてしまう。このとき、観客は舞台上の演者から一方的に与えられる、自らの予想を裏切る「展開」を求めているのだろうか。「展開」よりももっと本質的なこと、舞台上にある異質な空間に自分の身体を委ね、自分と外の世界、内部と外部の境界を揺れ動かしてくれることを求めているのではないか。
3番手に出演したゆうめいの『祐希』を振り返っても、あっと驚く「展開」が目立ったようには思えない(もちろん出演者が演目中に紹介されるのには驚かされたが)。この演目に登場するような男の物語は、ある程度共有されているだろう。部屋の中で一人悶々としていて、たまに異性とコンタクトがとれると色々妄想、期待してしまう男の物語。特にハッピーエンドも用意されていないであろう私小説的な物語に、大きな偶然の出来事は起こらない。それでもこの『祐希』は面白い。なぜなら、リアリティーのある空間を前にして、観客は観客席と舞台の境界を侵犯して、冴えない男の空間に入り込んでやりたくなるからだ。観客は「展開」をただ「待つ」のではない。観客は「動く」ことを求めているのだ。それが「展開」によってもたらされることもあるだろう。しかし、それだけではないはずだ。だのに、「展開」という言葉ひとつで観客の「動く」ことを抑制してしまえば、舞台と観客席とが合わさって成る劇場という空間の熱は消えてしまうだろう。
ここまで述べて、あえて言及を避けていた2番手、柳沢茂樹と鳥山フキの『ラッコ』について振り返ろう。これは観客は何も「待つ」ことなどできない。脈絡のない、断片のような言葉が結びつけられる時間に、観客はどのような物語にも『ラッコ』の言葉を包摂することができない。ただひたすら、舞台上の人間の身体と言葉についてていかなければ置いてかれる。「待つ」だけではだめだ。「動か」ねば。「観客」という言葉を食っちゃ寝ていた私の身体は、急に走らされて筋肉痛になった。あまり心地いい時間ではなかったかもしれない。でも健康には悪いから、たまには身体を動かさないと。だから私は今後も柳沢茂樹と鳥山フキを追い続けていくだろう。(永田)

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