2023年7月28日(金)~7月29日(土)
テアトロコント vol.62 渋谷コントセンター月例公演(2023.7)
主催公演
公演詳細
桃尻犬から考える「謝る」ということ
自転車で車に轢かれた男性が、車を運転した女性と会話している。男性は怪我もないし大丈夫ですと言っても、女性はとにかく謝罪させてほしいと懇願するばかり。そのうち女性は男性に対して、お詫びの気持ちを込めてウォーターサーバーを男性の家に設置させてほしいと言い出して…。テアトロコント初登場の桃尻犬は、登場人物3人と少ない人数での「お芝居」であったが、3人とも感情移入ができるようでできない、違和感と共感をごちゃ混ぜにしたような存在を浮かび上がらせる傑作であった。今回の作品は人間関係の機微というのが観客の心を動かすものであったが、その関係というのは、謝罪をする/されるという歪な関係であった。この「謝罪」というのは、人間関係においてどのような意味を持つのだろう。謝罪をしたら人はどんな気持ちになるのだろうか。きっとそれはそれは爽快な気分になるだろう。謝れば自分の過ちも失態も、全て曝け出したことになる。偽りのない存在に生まれ変わることができるのだ。たとえその謝罪の中に、嘘や誤魔化しが隠れていたとしても、謝罪を受け入れてもらえば相手にとっては過ちを認めた清い存在になることができるのだ。反対に、謝罪をされた人間はどうなるのか。謝罪を受け入れるということは相手の言い分を全て肯定的に受け取るということだ。それはすなわち、相手に心を許すことにならないだろうか。謝罪の言葉を受け入れてしまうということは、相手の心の発露を受け入れてしまうことになる。簡単に言えば、相手を信じてしまうことになるのだ。そうなると、謝罪をする/される二人の人間関係はどうなるのか。きっと、謝罪をされた側の人間は、謝罪をした側の人間に心を支配されるようになるのだろう。この作品の中の男性も、女性の申し出を受け入れ謝罪を認めたことにより、破滅の道を進んでいくことになる。一度謝罪を受け入れ相手に心を許したことにより、それが女性の思惑であったかどうかに関わらず、女性に人生を支配されてしまったのだ。言葉というのはきっと人間関係を結びつけるものである。それは当人にとって良い関係に導くものであれば、歪な関係を作り出すものにもなるのだろう。桃尻犬の作品の中の男性が、謝罪を受け入れたことから、借金が積み重なり人生の絶望に陥ってしまっても、それでも女性と離れることができなくなっているのは、非常に情けなく、強い哀愁を覚える。ここまで人がおかしくなってしまうのなら、気軽に他人に謝ることなんてできないし、謝られたくない。まあでも、車に轢かれたらすぐに警察は呼んだほうがいいとは思うけど。(永田)
時事問題を巧みにコントに落とし込む、春とヒコーキ
【春とヒコーキ】
【離婚の相談】妻の不倫を疑う男(ぐんぴぃ)と弁護士(土岡)は、一通りの相談を終え、駅のホームで解散する直前である。妻の不倫というショッキングなトラブルに向き合う男に対して同情する弁護士。しかし、その時目の前に電車が通過し、いわゆる「撮り鉄」の男は、会話を中断し、三脚を開き、映り込む人に対して罵声を浴びせつつ電車を撮影する。その姿を見て、弁護士は、「原因は男にあるのでは」と思わず感じるという話である。一部の「撮り鉄」による、自己中心的な振る舞いがSNS上で炎上することがあるが、その先のそれぞれの人生を想像させる奥深さがあった。
【お祓い】動物園勤務の男(ぐんぴぃ)は霊媒師(土岡)に自宅の除霊を頼む。しかし、人ではなくライオンの霊であったことから、「霊は怖くないけどライオンが怖い霊媒師」と「ライオンは怖くないけど霊が怖い飼育員」という対立構造が生まれ、その後は動きで魅せる話であった。B級ホラー映画を観ているようで、設定のチープさも楽しい。さらに、土岡とぐんぴぃがWボケのように機能しており、笑いどころが多かった。
【ハンバーガー】フードコートのように、ハンバーガーショップのトレーを持って空席を探す男(土岡)が、席でくつろぐ男(ぐんぴぃ)に食事が済んだら席を空けるよう注意する。一方、席ではなく、自宅でくつろいでいた男は、突然自宅に訪れた変質者に困惑する話である。土岡の端正な顔立ちとハキハキとした話し方が、一見理路整然として歯切れが良いものの、良く聞くと筋が通っておらずでたらめなことを述べているキャラクターと完全に適合していた。明らかにボケの見た目をしているぐんぴぃが、淡々と困惑しながら突っ込む姿もハマっており、私はこのコントが最も面白かった。
【オバケ】子ども部屋に侵入するおばけ(土岡)と、子ども部屋おじさん(ぐんぴぃ)。普段驚かせる側のおばけは、子ども部屋おじさんとの間で巻き起こる数々のホラー展開に怯え、すっかり形勢が逆転するという話である。ぐんぴぃの見た目が、リアリティを増幅させる。
全編を通じて、ぐんぴぃの存在感に頼らない、土岡の演技力の高さが光る。幕間のVTRは、SNS上でも人気者らしく、ライトに楽しめる笑いであったが、コントは本格派でバランスが良いコンビと感じた。コントの着想のきっかけとなったと思われる時事問題の使い方も絶妙で、時事問題でうまく笑いを誘いつつ、最終的には予想を上回る展開を見せる点も小気味よい。(あらっぺ)
最短距離の笑いを捨ててまで優先するリアリティ
ザ・ギースの演目を見て笑いながら気になったことがある。『エレベーターピッチ』は尾関演じる会社社長がエレベーターが来るまでの1分の間に、高佐演じる別の企業の男が契約を取ろうと営業をするが、社長が案件とは全然違うところが気になってしまい(男が靴下島で生まれたとか、ネバーランドで育てられたとか)、全然営業ができないというもの。そこから「うちと契約してくれたら私についての真相を話しますよ」という流れになっていく演目なのだが、私が気になったのは社長役の尾関がつけていたあごひげだ。そもそも長身で声の低い尾関がスーツ姿の出で立ちでいれば社長っぽくも見えなくもないのだが、たしかにそれではキャラクターとしては少し弱い気もする。ただ、そこであごひげがついてしまうと、普通の芸人であればキャラクターが出すぎてしまって、「社長キャラ」みたいなものが悪い意味で過剰になってしまう。もちろん、それも芸人としての心情はあるはずで、あごひげ一つ使うことで目の前をウケを取ることも可能だし、そういう最短距離で笑いを取ることこそが芸人という見方もある。ただ、ザ・ギースはそのあごひげで笑いを取ることはなかった。「社長」というキャラクターのリアリティを出すためだけのものであった。私が『エレベーターピッチ』を見ていての違和感はそれで、本来芸人であればその小道具を使うことで笑いを生み出すことをする人種のはずなのに、それをしない。高佐演じる営業の男もそのあごひげには一切触れない。あごひげは尾関が社長”らしさ”を出すためだけに使用された。芸人側がモノボケとして使用せず、ただリアリティを出すためだけに小道具等を使用するコントってじつはあまり見たことがない。この回の1組目に出演した若手トリオ芸人が女性を演じる際、こういう言い方をしたら申し訳ないが、最短距離で笑いを取る、つまり雑に不細工めに演じていた。そこにリアリティはない。それに対してザ・ギースの演目『恋はスローモーション』での女性役の高佐の格好や演技が、ちゃんと女性らしいリアリティがあった。『テアトロコント』という場は普通のお笑いライブではなく、芸人と演劇人の共演の場である。そういう場にフィットするものというのは、最短距離で笑いを取るものではなくて、むしろ最短距離の笑いを捨ててまでもリアリティを優先し、それにより演目に強度や説得力が生まれて、食い入るようにその演目を見ることになる。演技、演出、格好、小道具等は使いようなんだなと改めて思った公演であった。(カンノアキオ)
笑いで突いたビジネスの本質
ビジネスマンにとってはもはや常識ワードとなっているエレベーターピッチ。元々はシリコンバレーで生まれた言葉で、起業家が多忙な投資家に対し、15~30秒というエレベーターに乗っているほどの短時間に自身のビジネスについて相手の興味を惹くようにアピールする手法のことを言います。短時間のプレゼンなので、伝える内容や順番を整理し、分かりやすく簡潔に話すテクニックが求められるそうです。知らんけど。確かにコレはコントの題材になりそうです。高佐一慈さんと尾関高文さんからなるコンビ、ザ・ギースは2018年のキングオブコントで決勝の2本目にこのエレベーターピッチのネタを用意していたと言います。その後も微調整を加え、持ちネタの一つとして練り上げているのでしょう。この日も抜群の安定感と絶妙な間で観客の視線を釘付けにしました。4本やるネタの1本目にこのネタを選んだのも当然、計算の上ででしょう。尾関さん演じる某大企業社長にベンチャーと思しき高佐さんがアポなしで突撃、初対面にもかかわらず、エレベーターが到着するまでの短時間に出資を勝ち取ろうというのが大枠の設定。最初の掴み、自己紹介から、かまします。「長靴下と申します」「本名なの?」「はい、友人からはハイソックスと呼ばれています」 世の中には珍名さんと呼ばれる人たちが少なからずいますが、彼らは営業に向いているのかもしれません。そして、長靴下さんは突っ込まれます。「君、靴下短いじゃないか!」と。「今日はたまたま」と言い訳をしますが、勿論、織り込み済みでしょう。わざと突っ込まれ、ひと盛り上がりすることを想定し、短い靴下を履いてきたに決まっています。ここまで来たら、もう完全に長靴下さんのペース。社長が乗るエレベーターはもう到着してしまいますが、それよりも長靴下さんのことが気になって仕方ないのですから。長靴下さんはこの後も、ビジネスの核心には一切触れず、どうでもいいけど気になる話を振っていきます。そんなこと言われたら「どういうこと?」と聞き返したくなるのが人情というもの。社長はエレベーターを見送り、長靴下さんというパーソナリティに興味津々。実はこれこそがビジネスの本質。仕事はモノやサービスの質ではなく、人柄で進められるのが殆どですから。二人はその本質を笑いで突いたのです。今年、結成20年目を迎え、独特のスタイリッシュさにベテランの味も加わったザ・ギースはいい意味で寄席に出演しても違和感のない風格が備わった感。新たな飛躍に期待大です。(市川幸宏)
記憶の時間軸。
《1》【ぎょねこ】<コント師枠>男性3人組/計5作品/★★★☆☆/
スーツの男たち「いたぞー!あいつだー!!」。銃声が鳴響く。男「なんだなんだ?スーツの男たちがたくさんやってくるぞ…」。と、そこに車で乗り付けてくる別の男性。「さぁ。早く乗って!説明は後だ!」と気迫に押され乗車すると銃声響くカーチェイスが始まる。状況説明を聞こうとするも聞きいれられず、別便バイクに飛び移れとの指示。次々に人が入替り立ち代わり、何一つ分からずじまいのままアジトに到着。やっと説明できるボスが現れるも仲間に殺されてしまい、最後まで何もわからないハリウッドテイストの演目『待ち合わせ』。世界観が分かりやすく導入部にすっと集中できる分、そこで動く登場人物の感情のやりとりによって、おかしさがさらに相乗効果で膨らんでいったりすると、さらに楽しめるのではと期待してしまう自分がいる。話の展開重視な印象を持ったのかも知れない。この文章を書くまでなぜか二人組の印象を持ってしまっていたが、内容を思い出してみれば、確かにトリオだった。なおかつコンビ間でも別ユニット活動しているという若干のややこしさはあるが、覚えていきたい。
《2》【桃尻犬】<演劇人枠>出演者:男女3名/『別れるときに思う事』計1作品/★★★★☆/
女「本当にこの度はご迷惑をお掛けしてしまって申し訳ありませんでした!」男「いえ自転車に車がちょっと当たっただけなんで…」。交通事故の接触事故を起こし土下座して何度も謝罪する加害者女性と、もう大丈夫だと伝える被害者男性との押し問答の末、女「…じゃあ…お水はお好きですか?私、美味しいお水を販売してて、ウォーターサーバーを設置して毎月美味しいお水が届くっていう…そのお水、無料で一年お届けさせてください!」。二年契約の水をきっかけに男女交際が始まるが、すぐに高額商品や契約を背負い借金で首が回らなくなり、見かねた友人を含め三人の話し合いとなる演目『別れるときに思う事』。「人にものを売ることで生きている実感を得る女性」という設定が、特技と疾患の真ん中のような奥深さを持っているし、男性の「商品を払うことで、少しでも女性側と繋がっていたい」という気持ちも、愛情深さと依存心の真ん中のような奥深さを持っている。人と強く繋がっていく時、金銭交換の伴わない関係はほぼ無いので、この問題に無関係な人は少なくとも日本にはいない。愛する恋人や家族のために指輪やマイホームやワンボックスカーを買う人と、高額の水や家電契約をする人に、そこまで違いはない。結局この世は推しへの課金力なのかもしれない(違う)。題材は奥深くも重苦しすぎない雰囲気で、ユーモアの混ぜ方も上手で、久々に分かりやすく楽しみやすい演劇人枠が観れて本当に嬉しかった。
《3》【ザ・ギース】<コント師枠>男性2人組/計4作品/★★★★☆/
営業マン「社長!弊社のビジネスに出資して頂きたく、次のエレベーターが来るまでの一分間お時間を頂けないでしょうか」社長「…負けたよ」。営業マン「私、代表のナガクツシタと申します。弊社の…」社長「ちょちょちょ…君、ナガクツシタさんってお名前なの?本名?」営業「はい、友人からはハイソックスというあだ名で…社長そろそろ本題へ」社長「(足元を見て)ちょちょちょ!…なんで君短い靴下はいてるの?ナガクツシタさんなのに」(ポーン)とエレベーターがやってくる。営業「もう一度だけチャンスを下さい!」とエレベーターが来るまでの限られた間にも関わらず、プレゼン内容以外が気になり本題までたどり着けないやりとりを繰り返す演目『エレベーターピッチ』。爆笑オンエアバトルの頃からチェックしていた芸人さんで、テアトロコントではvol.23以来の拝見。内容の完成度もさることながら、身長やキャリアの醸し出すどっしりとした存在感に見入ってしまう。ドッジボールをする居酒屋の演目では、尾関さんのふくらはぎの発達を感じググってみれば野球コラムを書かれていたりもしているし、スタートアップ企業勤務の模様。社会と笑いを結びつける存在として未知の発展をしていきそうな予感がする。
【総評】演劇人枠が理解しやすい作品だったおかげで、観後感が軽やかだった。今回も沢山の学びを頂いた運営・出演者の皆様に心から感謝致します。(モリタユウイチ)
ぴったりとずれる、勢いよく行儀がいい。
ザ・ギースのコントを4本通して観覧する中で見えてきたのは、丁寧に作られた台本、ネタのクオリティは勿論だが、何よりそれらが回収しきれない、生々しく輝く滑稽さだ。ザ・ギース/向田の手がける脚本は、ギリギリありえない舞台設定や、あるいは現実から2歩も3歩も浮いた存在のキャラクター設定を描写する。おかしな人、あり得ない状況、ベースとなる構造は非常に分かり易いつくりだ。しかし、例えば本公演にて披露されたコント「10年後のこの場所で」にて登場した「情事狂兄(ジョージクルーニー)」というキャラクターについて、(パフォーマンス出馬の意味わからんやつ居るよな〜)という薄い共感でキャラクターの輪郭をなぞるだけに留めず、会場に異空間ごと作り出すのに成功していたように感じる。コントにおける過剰なキャラクターは笑いを生む強力なトリガーになりやすいが、台本あるいは演じ方によって「変なキャラクター」というラベリングが前景化しすぎてしまい、どこか説明を読み聞かされているだけような余白の無さが気になってしまう場合もある。しかしザ・ギースにおいては、台本とキャラクター、演者とキャラクター、空間と演者の身体… 現場に存在する、あるいは発生するあらゆる要素と要素の「間」「距離」に笑いを起こしている感覚を観た。それらの磁場と磁場が線を結んで、異空間を描写する。キャラ自体も勿論ユニークなのだが、それ自体ではなく、キャラクターが生で他者に触れ合っている感触や様々な関係項。関係性と関係性の間、その空間的ゆとりが、キャラクターの背後に見え隠れする悲哀など、説明がなされていない部分にも思考を巡らせ、そしてその生まれた思考が、観客の中にまた新たな関係項を生む。それらを始め、スローな時空間の中で異常にバウンドする身体、組体操の震え、舞台上で半分役を脱ぎながらドッヂボールをする様、台本では拾われないが、舞台上にあらわれてしまう、どうしようもない身体の所作と関係性によって非言語的ユーモアを会場に蔓延させる。それらによって、明快な台本にも関わらず、まるでジェンガのように小さくそれらを崩しながら構築し、結果的にアンバランスなバランスを以って絶妙に高佐、尾関の演じるキャラクターを立ち上げていた。しかしそうしたほとばしる奇妙さを、最終的に脚本によって丁寧に収めていく。披露されたいずれのコントにせよ尾関、高佐の演じる登場人物の両者の間の関係性はしっかりとズレを保ったままだ。あるいはぶつかりそうになったところをすり抜けていき、ズレをずらさない。奇妙さ、無秩序さを投げっぱなしにせず、きちんと一つ一つの「コント」として収めているから、一つ一つのコントに丁寧にカオスやシュールを作り出せる。本公演中に情事狂兄の壁に立てかけていた幟が倒れてしまうアクシデントも見られたが、もはやそれすらも奇妙な舞台の支配力の賜物とすら感じてしまう。話は逸れてしまうが、もう一つ気になったのは幕間の演出だ。キャラからキャラへの履き替えを観客の目の前で行なっている。ささやかな演出ではあるが、この幕間の時間が、演じる2人の生の身体性を繋ぐメディウムになっているようにも感じられた。コントとコントが、キャラ同士のストーリーなどではなく「演者二人の生の身体」によって繋がれていることが可視化されたように見える。メタ的かもしれないが、この接続によって思考のレイヤーが新たに挿入され、ここでもコントの空間に関係項が組織される。世界が微妙に繋がっているコントの連作であったり、コントの接続の表現は今や様々な開発がなされている。しかし演者の地続きの身体を、役を脱ぎ、そして身に纏う過程を見せながら、歪に繋ぎ合わせていくこと。今後も台本のロジック、ドラマ演出の先鋭化はますます進んでいくだろうが、むしろそうしたロジックを崩していく、もっとなんてことない存在感やささやかな要素の関係性から生み出される異常なコメディを観たい。(HT)
つかず離れず、3組のクラスメイト
真夏の土曜のテアトロコント。見せてくれる世界の点が近い気がして、もし同じクラスにいたら、きっかけ次第で親友になりそうな3組でした。春とヒコーキのコントには、練り切られた言葉たちがいくつも配置されていて、そしてその言葉たちがちゃんと置かれたとおりに破裂するよう的確にストーリーが結ばれている。「純粋って、正しいって意味じゃないですもんね」「ライオンの幽霊は、ライオンに属します」とか、もうたとえその言葉が一人歩きしても大丈夫なくらい強い。言葉がビカッと怪しく光るたび、土岡さんの企み顔が目に浮かぶようでした。コント丸ごとはなかなか持ち歩けなくても、言葉一行ならたくさん心に持っておける。これから、ふとした時に取り出してはニヤニヤ笑いたいです。ところで『春とヒコーキ』って、人柄のインパクトが強くてつい忘れがちですが、何てまぶしい名前なんだろう。そのあまりに爽やかな名前を背負いながら、既に2人が手いっぱい握りしめている狂気をもっともっと剥き出しにして、どんな醜い世界も、ピカピカじゃなく、ビカビカのファンタジーに変えまくってくれたらなと願います。桃尻犬。桃尻犬を見た帰り道は、何だかいつも「身につまされる」という言葉が頭に浮かぶ。ひょうひょうとした主人公を呑気に笑っていると、クッと首根っこを掴まれる。でもいつも、そこに作者の悪意も作為も感じない。そこが不思議なのです。もしかして野田さんは、喜怒哀楽のどの感情も同じくらい好きで、どれがうれしいとかどれはしんどいとかそういうのはなくて、だからこそ生まれる表現なのかも知れません。身につまされるというのは基本しんどくて、出来ることなら避けたい。でも一方で私たちにはそういう痛みをわざわざ求めてしまう部分もある。だからいつか、もっと思いきって感情を扱った桃尻犬の作品も見てみたいなと思います。それは決して派手に表現するということじゃなく、感情のとことん細部や深いところに入って、その作品の誰かを忘れられなくなったり、ともすると憎くて仕方なくなったり、許せなくなったり、そういう桃尻犬体験をしてみたいです。
7月のトリは、ユーロライブで数々の奇跡を見せ続けてきたダウ90000。私がはじめて観たのはちょうど2年前の『あの子の自転車vol.7』で、もちろんその日から一時も、目を離せたはずがありません。誰だって青春が好きで、でも誰だって青春に心残りがあって、ダウ90000にはずっとそれを「お見通ししてもらっている」感覚がある。変な日本語だけど。青春のいいところって実は「本当はそんないいもんでもなさ」かも知れなくて、実は青春のそこが一番可愛い。特にそういうところをお見通しされている。懐かしい青春、もう手に入らない青春、もしかしたらまだ間に合うかもしれない青春、が満遍なくぎゅうぎゅうに詰まってて、だからみんな、寺みたいに駆け込みたくなる。ダウ90000の魅力を無理やり言葉にするのなら、そういうことなのでしょうか。そして何より、8人自身がいま、前例のない青春を必死で駆けている。その瞬間を目の前で見てしまうと、どうしたってせめて自分も日々をちゃんと暮らさざるを得ない。重苦しいけどきっとこれからも、私はダウ90000に、生きるためのピースをたくさんもらうのだと思います。最後にひとつだけ。夏のユーロライブで浴びる『真夏の夜の夢』が大好きでした。いつかまた観られたら嬉しいです。(ごとうはな)